角笛の記事に関する質問と回答:

 

エレミヤです。

現在、角笛にいくつか終末に関する記事を載せています。

その記事に関していくつか質問をいただいています。他の読者にも興味があることかもしれませんので、参考までに質問とそれに関するこちらからの回答を記載します。

もっとも回答はあくまで、エレミヤがこう教えられている、という内容です。

 

<質問:仮庵の教会に行くべきか?>

 

ショッキングですが、すばらしいメッセージです。

教会は背教の日が近づいてきていますね。メッセージの主旨は、背教した

教会から離れ、地下教会や仮庵教会に行くほうが良いという意味合いでしょうか?

もし、地下教会や仮庵強化以下へ行けない場合は、自宅で聖書を読み、

礼拝する、ということでも可ですか?

 

<回答>

そうですね。記事でも書きましたように、聖書が暗示していること、預言していることは、

終末の日には、残念ながら教会が背教してしまうこと、最後には、

悲しいかな、教会の教理や教えの土台も崩れ、教会ならぬものになってしまうことです。

そして、その背教の教会に最後までとどまり続けるものは、666の獣の印を受け、

反キリストを拝み、彼との堅い契約を結ばざるを得ないようになることを聖書は

暗示し、預言します。

このような666のしるしの災いに会わないために、必要なことに関して聖書は以下の様に語ります。

 

マタイ24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

 24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

 24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 

すなわち、あの『荒らす憎むべき者』すなわち、反キリストが「聖なる所」すなわち、今まで、キリストが占めていた教会の神の座に立ち、すなわち、教会がキリストの代わりに反キリストを拝み受入れる、という冒涜の極致に至ったときは、もうその背教の教会にとどまるべきでないことがここで

語られているのです。

上記聖書箇所ではその時には山へ逃げろ、家へ入るな、畑から戻るな、として、

何しろその背教の教会に戻るな、ということが語られているのです。

ロトに関する終末の警告も同じであり、ソドムにとどまるもの、後ろを振り返るものは滅びる、として、

ソドム化した教会を出ることがたとえで、強調されているのです。

 

クリスチャンが教会を出てどうやって、信仰を維持するのかという疑問があるかもしれませんが、そのことを予見したかの様に、仮庵の祭り、すなわち、地下教会を作ってそこに

とどまることが強調されているのです。

また質問の続きで、「自宅で聖書を読み、

礼拝する、ということでも可ですか?」とのことですが、それで、十分可だと

思います。ただ、クリスチャンは一人では弱いので、ほんの少人数でも

複数のクリスチャンが集まれる、と良いと思います。聖書には、「2,3人私の名によって

集まるところには私もいるからである」と書かれているからです。

 

<質問:再臨の時>

 

2030年にキリストが再臨するという説がありますが、どうでしょうか?

アダム以来6000年が過ぎているから、そろそろ7つ目のミレニアム、真の安息日、天国が始まるとの考えがあります。

 

<回答>

キリストの再臨の年ですか?残念ですが、私にはさっぱりわかりません。

ただ、今が7つ目のミレニアムなので、そろそろ終末が近いとは思っています。

参考になるかどうか、ダニエル書に以下の記述があります。

 

ダニエル 12:11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。

 

 12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。

 

 12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

 

解説として、「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる」時とは、

背教の教会に反キリストが立つ日のことです。その日から3年半の大艱難時代が始まります。

そして、その日を基点とした1335日に関して「幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。」と書かれています。

反キリストが立ってから1335日に何が起きるのかは、不明ですが、もしかするとその日に

我々艱難に会うものにとっての幸いである、キリストの再臨があるのかもしれない、と個人的に

思っています。これは、現時点では個人的な考えであり、参考です。

 

<質問:艱難時代とは>

再臨前の7年は獣の支配にさらされ、特に後半の3年半は地獄の様なつらい生活になるでしょうか?

アメリカでは強制収容所に入れられ、殺されると書いている人もいますが本当でしょうか?

日本はどうでしょう?世界に安全安心な場所はあるのでしょうか?

 

<回答>

艱難時代のことは私も見てきたわけではないので、聖書の記述とあとは、現に(獣の国である)アメリカで起きつつあることから、想像するしかありません。

まず、艱難時代の艱難に関しては、主ご自身が、以下の様にいくつものことばで、艱難の日が来ることを預言していますので、艱難が来ると思うのが正しく、その艱難に備えるのが正しい、と私は思っています。

 

マタイ 24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 

 24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 

 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

 

 24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。

 

 24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

 

このように主はいくつものことばで、その日、主につく人には艱難が来ることを警告しています。

これらのすべてのことばや、警告を無視して「艱難には会わない、その前に挙げられる」と主張する

艱難前だの2段階携挙説だのは、論外であり、このような間違った教えに沿って正しく終末の日を理解することなど不可能です。

 

艱難時代は地獄の様な時代かどうかは、わかりませんが、しかし、

艱難ということばがつく以上、決して楽しいときではなく、逆に困難や艱難が伴う時代になると

思った方が正しいと思います。

 

問題は、また、大事なことは何故、神様はこのような時代を終末に許されるのかその意図はどのようなものかを聖書に沿って正しく理解することだと思っています。

 

聖書はその艱難のときに関して、「地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時」と表現しています。要はその艱難時代が到来する理由は、クリスチャンへの試み、試験の日だというわけです。

 

終末や艱難時代ということを考えるとき、我々クリスチャンの側からのみの考えによるなら、

試練や、艱難は大変だ、そんなときにはなるべく出くわしたくない、そんな考えになるかもしれません。

しかし、順番を考えなければなりません。人の都合だけでなく、神の都合、神の意思を尊重すべき、と

思います。聖書は神が書かれた書であり、神が終末の日に艱難の日を許されるにはそれなりの理由もあるのです。そのことを考えたい、と思うのです。

 

艱難時代の3年半を理解する鍵は主の3年半の公生涯がその型ですので、その時代のことを考えるのが理解の鍵となる、と思います。

この3年半の時代に主に従う弟子たちにはまさしく、キリストの名のため、またキリストのことばに従うがゆえの艱難が起きました。彼らは、キリストの名のゆえに、憎まれ、カルト扱いされ、また会堂を追われ、命の危険さえ感じたのです。しかし、この3年半の間、艱難に会ったのは、すべての神の民であるユダヤ人というわけでなく、少数のキリストに従った弟子のみであったことは知るべきだと思います。

同じように、終末の日の3年半の大 艱難の日においても、すべてのクリスチャンが艱難に会うわけではありません。むしろ、キリストのことばに従わず、同性愛を受入れたり、イスラム教にも救いがあるなどといったり、反キリストを拝む人には決して一つも困難も艱難も起きないでしょう。強制収容所に入れられることもないし、世の中の人から憎まれることもありません。

 

その日、艱難に会うのはかつての12 弟子の様に、どこまでも、キリストのことばに忠実な人々です。

さて、先ほどの12 弟子ですが、艱難に会ったことは大変でしたが、しかし、悪いことばかり、彼らに起きたわけではありません。むしろ、他の神の民が受けなかった素晴らしい約束を受けています。

以下のことばです。

 

ヨハネ14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

 

 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 

 14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

 

ここで、キリストはご自身弟子たちのために場所を備えること、そして、再臨して彼らを天の住まいに迎え入れることを約束し、語りました。

 

これは、素晴らしい約束ですが、しかし、この約束を語られた相手はすべてのクリスチャン、すべての神の民ではない、逆にほんの少数の弟子、艱難の日を耐え、最後の晩餐の日まで、

キリストの後に従った弟子たちに与えられていることには、注目すべきです。

 

これらの弟子たちはいわば、再臨の日に主に花嫁として、迎え入れられる賢い乙女の型です。

そして、聖書は再臨の日にすべての神の民が花嫁として迎え入れられるわけではない、

逆に賢い乙女、愚かな乙女の様にクリスチャンの間に区分がもたらされることを語っていることを思い出してください。

 

これらの3年半の艱難の時代を経て、なおかつとどまった弟子たちこそ、試練や試みやテストを経て、

なおかつ主の名を否まず、最後にみごとに主ご自身から天の御国を約束され、再臨の日に迎え入れられることを約束された選ばれた、少数の弟子たちなのです。

 

そして、終末の日の3年半の艱難時代もこの弟子たちに起きた事柄と同じ意味あいで、

繰り返されることを知ってください。

その終末の日の3年半の艱難時代は、今の時代のクリスチャンをより分け、選び、選抜し、試験を行い、真に最後まで、主に従う忠実な弟子は誰なのかを選び、選別する役割を果たすでしょう。

 

 

ですので、私たちは今の時代のキリスト教会をおおっているあらゆる偽りやら、誤った教理に

惑わされず、しかし、明らかに聖書が語っている真理、終末の日の艱難時代はクリスチャンをよりわけ、真に主に従うものとそうでないものとをより分けるために用いられる、という真理に目を留めなければなりません。

 

繰り返しますが、聖書は終末の日にすべてのクリスチャンが無条件で再臨の主に花嫁として迎え入れられるとは語っていません。逆に乙女の間に区分やよりわけがあること、選別があることをかたっているのです。他のたとえでは、良い麦、毒麦の区分、さらに良い魚、悪い魚の区分の様に、明らかにクリスチャンは世の終わりに選別され区分され、より分けられることを語っています。

そして、私たちのあるべき姿はたとえ艱難があっても、かつての12 弟子の様に最後まで、主に忠実に従い、そして、

めでたく再臨の主の見える、このことが正しい歩みなのです。

 

<質問:自分がクリスチャンであることを隠すべきか?>

 

それともたとえばアメリカなら、自分がクリスチャンであることを隠して生活するべきでしょうか?何故なら地下教会でもスパイがいる、とおもわれます。

 

 

<回答>

自分がクリスチャンだから、といって、艱難時代に迫害に会うとは限らないと思われます。ただ、

「私の名のゆえにすべての人から憎まれる」と主がいわれているので、キリストの名を否むかどうかで、

迫害を受ける可能性は大いにある、と思います。

ですので、私たちはその日、何を第一にするのか、各自が決断することを迫られることを知っておくべき、と思います。

かつての日にも、以下の様に態度がはっきりしない人々がいました。

 

ヨハネ12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

 

 12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

 

このような態度がはっきりしない人々が主の再臨の日に受入れられるかどうかは微妙ですので、

私個人としては人にこんな日和見な態度はすすめられませんし、自分もまったくこんなあやふやな態度を取るつもりはありません。まあ、この辺は各自の自由ですが。

それから、地下教会、仮庵の祭りは主が終末の日に定めた方法です。

かつての共産主義のキリスト教迫害の時代にもソ連などで、多くのクリスチャンが地下教会で養われました。そのことが終末の日に再現する、と思われます。

 

<質問:聖霊が取り去られるのか?>
聖霊が取り去られるのは、最後の3年半でしょうか?

 

<回答>

聖霊が取り去られることに関しては以下の様に書いてあります。

 

2テサロニケ2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

上記節の引き止めるものが聖霊です。そして、上記には聖霊が取り除かれることが描かれています。

この取り除かれるとのことばの原語は奥さんが旦那から離縁され追い出される、というような

ニュアンスがあります。すなわち、出て行くことは奥さんの本意ではないが相手がどんどん離縁を進め、追い出しにかかっている、という意味合いなのです。

具体的には聖霊は教会にとどまりたいが、教会の背教がますます進み、悪霊を受入れ、

聖霊を悪霊呼ばわりし、追い出しにかかる、という時代が到来するようになるのです。

このことは、かつての日、助け主であるイエスが、悪霊呼ばわりされ、ピラトの元で縛られ、最後には、

神の民の都であるエルサレムを追い出され、都の外で、命を失ったことに通じます。

主はその時代の救い主、助け主としてこられたのですが、その時代の神の民は彼を受入れず、

悪評を帰し、罪を負わせ、罵倒して、追い出したのです。

同じような日がもう一人の助け主である聖霊の上に到来します。

 

さて、そのように聖霊が追い出された日に我々はどのようにして歩むかということですが;

まず知らなければならないことは、主は確かに背教の教会からは追い出されますが、

しかし、聖霊を受入れ、主の声に聞き従う教会にはたとえ、艱難時代でも聖霊はとどまる、ということです。

 

このことは以下のエリヤとツアレファテのやもめの箇所で記されています。

 

1列 17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

 

 17:8 すると、彼に次のような主のことばがあった。

 

 17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 

 17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 

 17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

 

 17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

 

 17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

 

 17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

 

 17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

 

 17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 

この箇所には、エリヤのときの3年半のききんの日にエリヤを助けたやもめには、「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」ことが書かれています。

3年半のききんは、3年半の艱難時代の型です。その日、確かにききんが来て、川の水は尽き、

聖霊の働きも尽き果てる日が到来したのです。しかし、エリヤを助けたやもめ、教会には、

つぼの油、すなわち、聖霊の働きは消えなかったことがたとえで語られています。

 

さらに、主はラオデキヤの教会、主を戸の外に追い出し、聖霊を追い出す教会に対して、

「 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

と語りました。たとえすべての教会が主を追い出す時代になったとしても、主の声を聞き、

戸を開ける教会にはなお、主は入られ、聖霊の働きを与える、との約束があるのです。

 

<質問:いつまで背教の教会にとどまるべきか?>

 

公の教会が残らず獣に支配されるとして、今から教会を抜け出すべきでしょうか?

それともぎりぎりまでとどまり福音を宣べ伝えるべきでしょうか?

 

<回答>

主は獣に支配された背教の教会を出るべき日、その合図として、

以下の様に語りました。

 

マタイ24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

 24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

 24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 

ここでたとえを通して書かれているように、“『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ”

ことが我々が背教の教会を出るその日の合図なのです。

 

荒らす憎むべきものとは、反キリストであり、2テサロニケでは以下の様に語られています。

 

2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

ここに書かれているように、反キリストという人物が神の宮である教会の真ん中にたち、

自分こそ神である、と宣言するのです。具体的には教会の神の座、キリストの座を反キリストが奪い、

キリストを追い出すわけです。そして、その座こそ、「聖なるところ」なのです。

 

このことは、影でこそこそ、というより、全世界の人々の目の前で行われるでしょう。

ですので、全世界の教会が徐々に背教化し、最後にはキリストの座に反キリストを受入れたとき、その時こそ、我々が背教の教会を逃げ出し、地下教会に入るべきときなのです。

このときより、遅れてしまってはいけません。

 

<質問:物の売り買い>

その時には、実生活でも売り買いできなくなるのでしょうか?具体的にどんな生活が待ってるんでしょうか?

 

<回答>

黙示録13章には、確かに獣のしるしを受けた人以外売り買いできないことが書かれています。

 

黙示録 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

この売り買いですが、私個人としては、たとえとして理解しています。

聖書では、あがないとは、買い取るという意味がありますので、売り買いは、キリスト教用語であり、

人の救いやあがないに関わる働き、をさすと思われます。

すなわち、獣の刻印を受け、獣の霊を受けている人以外、救いやあがないに関わる奉仕に携われない日が来る、と理解しています。

 

それでは、実際のものの売り買いに、全く関係しないか、これは、残念ですが、今はわかりません。