通算No.164 ヨシヤ王のリバイバル

テキスト:”2列23:1 すると、王は使者を遣わして、ユダとエルサレムの長老をひとり残らず彼のところに集めた。
2 王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。
3 それから、王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。
4 それから、王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行った。
5 彼はまた、ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で香をたかせた、偶像に仕える祭司たちを、また、バアルや太陽や月や星座や天の万象に香をたく者どもを取り除いた。
6 彼は、アシェラ像を主の宮から、エルサレムの郊外、キデロン川に運び出し、それをキデロン川で焼いた。彼はそれを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。
7 さらに、彼は主の宮の中にあった神殿男娼の家をこわした。そこでは、女たちがアシェラ像のための蔽いを織っていたからである。
8 彼はユダの町々から祭司たちを全部連れて来て、ゲバからベエル・シェバに至るまでの、祭司たちが香をたいていた高き所を汚し、門にあった高き所をこわした。それは町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門にはいる人の左側にあった。
9 高き所の祭司たちは、エルサレムの主の祭壇に上ることはできなかったが、その同輩たちの間で種を入れないパンを食べた。
10 彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。
11 ついで、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばの主の宮の入口から取り除き、太陽の車を火で焼いた。
12 王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが主の宮の二つの庭に造った祭壇を取りこわし、そこから走っていって、そして、その灰をキデロン川に投げ捨てた。
13 王は、イスラエルの王ソロモンがシドン人の、忌むべき、アシュタロテ、モアブの、忌むべきケモシュ、アモン人の、忌みきらうべきミルコムのためにエルサレムの東、破壊の山の南に築いた高き所を汚した。
14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。
15 なお彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所もこわした。高き所を焼き、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像を焼いた。
16 ヨシヤが向き直ると、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人をやってその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して呼ばわった主のことばのとおりであった。
17 彼は言った。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされた、あのことを預言した神の人の墓です。」
18 王は言った。「そのままにしておきなさい。だれも彼の骨を移してはならない。」それで人々は彼の骨を、サマリヤから出て来たあの預言者の骨といっしょにそのままにしておいた。
19 なお、ヨシヤはイスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリヤの町々の高き所の宮をすべて取り除き、彼がベテルでしたと全く同じように、それらに対してもした。
20 それから、彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上でほふり、その祭壇の上で人間の骨を焼いた。こうして、彼はエルサレムに帰った。
21 王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、あなたがたの神、主に、過越のいけにえをささげなさい。」
22 事実、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代からこのかた、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえがささげられたことはなかった。
23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、イスラエルでこの過越のいけにえが主にささげられただけであった。
24 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。これは、祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法のことばを実行するためであった。
25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。
26 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。
27 主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」
28 ヨシヤのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
29 彼の時代に、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。
30 ヨシヤの家来たちは、彼の死体を戦車にのせ、メギドからエルサレムに運んで来て、彼の墓に葬った。この国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで、彼に油をそそぎ、彼の父に代えて、彼を王とした。”

本日は「ヨシヤ王のリバイバル」という題でメッセージしたいと思います。ヨシヤ王に関する記述から現在の我々に対して語っていることを見ていきたいと思うのです。

ヨシヤ王の時代は神の民、ユダの歴史の中で、いわば「最後のリバイバル」の時代です。彼以降の王はエホヤキム、ゼデキヤというように、バビロンに捕囚されていく、いわば滅ぼされていく神の民の王達の時代です。

しかし、このヨシヤ王の時は、”25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。”と書かれているように、神への従いにおいては空前、絶後の時代であったことがわかります。

終末の時代にも教会 がバビロン化する時代に終末のリバイバルがあり、教会の回復があり、また神のみこころに全く立ち返ったフイラデルプィアの教会が起きてくることが預言されています。

私はこのヨシヤ王の時代こそ、終末の回復の時の予表ではないかと思っています。さて、テキストに沿って見ていきたいと思います。

”1 すると、王は使者を遣わして、ユダとエルサレムの長老をひとり残らず彼のところに集めた。
2 王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。”

王は”主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。”のです。そして、これが一連の復興、リバイバルの原因であり、初めなのです。ですから、終末にもおそらく”契約の書が発見される”ことがおきてくるでしょう。

このことは主イエス、パウロの時代に起きました。ユダヤ人と同じ聖書(旧約)を読みながら、主イエスとその弟子の目にはまるで、聖書が再発見されたように見えたのです。

ユダヤ人にとって、聖書のことばとは、律法の行いを強調するものでした。長い間、彼等の目にはそのようにしか見えなかったのです。しかし、それを再発見した人々がいます。それが、主イエスであり、またその弟子達です。弟子であるパウロは信仰の義を”再発見”したのです。この教えはパウロが勝手に考え出したものではなく、実は聖書がその始めから語っていたことなのです。しかし、多くの間、発見されずにいたのです。しかし、主イエス、パウロの時に再発見されたのです。

また、主イエスはエルサレムの裁きについて語りました。このことは、聖書にはっきり記されており、主イエスはすでに、このことを発見していました。しかし、ユダヤ人の目には”隠されていた”のです。

彼等は今、改めて ”この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓”いました。 彼等は全く聖書を持っていなかった、神のことばに触れたことのない民ではないのです。しかし、彼等の上にこの書物のことばは、今改めて大きな影響を与えたのです。

これらのことばは何を予表しているのでしょう。これは後の日に表わされてくる終末のみことばのことではないかと私は思っています。

終末にも同じような時代が来ます。多くの聖書のみことば、預言が実は。終末における教会の裁きを語っているのだということが人々にわかる時、再発見される時がきます。その時に深刻な悔い改めとリバイバルが起きるのです。

このことはみことばの回復であり、これは終末に関連して、バプテスマのヨハネへのことばとして、預言されていたことです。

イザヤ40:3ー5
”3荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」”

また、ゼカリヤのことばとして、預言されていた、教会、そしてみことばの真理の回復です。

”ゼカリヤ4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」””3 それから、王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。”
 

”4 それから、王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行った。”

ヨシヤ王は宮やエルサレムから異教の偶像やたかき所を取り除きました。さて、この改革の中に一つ特徴があります。

それは、彼が起こした改革には”太陽、月、星、天の万象”という表現が多いことです。これらが予表なら何をさすのでしょうか。それはこういうことです。聖書の中でアブラハムの子孫である神の民は星と表現されています。ですから、星、天の万象はクリスチャンのことです。そして、太陽、月は星より光が強い、すなわち一般のクリスチャンより大きな器です。ですから、太陽、月、星を拝むとは、器崇拝の罪をさすのです。

この罪は終末の書である黙示録にも啓示されている罪なのです。

”ヨハネの黙示録 6:12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、の全面が血のようになった。
13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」”

この箇所も見てみましょう。

”12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。”

子羊の封印と書かれています。子羊は殉教の象徴であり、この殉教がこの時代の裁き、報復をもたらします。”大きな地震が起こった”とあります。地震は倒れるものと倒れずに残るものとの区分を行います。すなわち、終末の地震は神の民のよりわけの時をさしているのです。

”大きな地震が起こった。そして、太陽は”とあります。この表現はあたかも地震と太陽が黒くなることとが関係があるかのような表現です。自然の世界では地球上の地震と太陽とは直接の関係ありません。たとえ、ロサンジェルスに地震がおきても、チリに地震がおきても太陽が突然光らなくなった、朝から黒い太陽が上ってきたなどということはないのです。しかし、この黙示録はたとえの書であり、これらの太陽、月は器をさすたとえです。ですから、これらは地震、すなわち終末のよりわけの中で、太陽、月に比せられる器も光を失っていく、そのことをさすのです。

”13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。”

天はクリスチャンのいるところです。本来彼等はキリストとともに天に座する者です。しかし、終末の日に、星であるクリスチャンが彼等のいるべき、天から地上、すなわちこの世に落ちてきてしまうことが預言されています。いちじくも神の民をさす時、よく用いられる表現です。そして、”いちじくが、大風に揺られ”る時がきます。それは、砂の上、岩の上に建てられた家に雨が降り、風が吹く日、すなわち終末のよりわけの時であり、砂の上に建てられた家は倒れるのです。

”14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

天はクリスチャンが座すところであり、別の表現ではこれはいわゆる教会をさします。しかし、その教会が”巻き物が巻かれるように消えてなくな”る日がきます。いわゆる教会が消滅、解散される日です。この日、すなわち神の民の国が消滅、解散、捕囚されることは旧約の時代にありました。それは、バビロンの捕囚の時であり、その時、神の民の国、ユダは消滅してしまったのです。そして全ての神の民は異教の地へと移されてしまったのです。これは終末の教会の上に起きてくることの予表であり、”すべての山や島がその場所から移された。”と書かれているのはそのことです。

”15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。”

前の節までは、太陽、月、星、いちじくについて書いてありました。この節では、地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者について書いてあります。そしてこの前者と後者は関係があります。というより、後者は前者のたとえの意味を補足、説明しているのです。すなわち、この「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者」がすなわち、「太陽、月、星、いちじく」なのです。

また、「地上の」王ということばにもさらにたとえが使われています。彼等は天から落ちた星、いちじくなのです。すなわち、かつては天にいた、すなわち神の民をさすのです。王とは神の民を治める者、教会の指導者です。また、高官とは高い位の人々、すなわち教会組織の高い地位につく人々です。金持ちは多くの行いを持つものです。これらの人々は神の民の中で、傑出した人々であり、人々から多くの尊敬を受ける者達です。しかし、彼等を拝し、仕えることは偶像崇拝の罪です。

17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

神は彼等が偶像崇拝の対象になっていることに大きな怒りを表わされるのです。

さて、列王記のテキストに戻ります。

”5 彼はまた、ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で香をたかせた、偶像に仕える祭司たちを、また、バアルや太陽や月や星座や天の万象に香をたく者どもを取り除いた。”

ここで、バアル神について書いてあります。バアル神は何をたとえているのでしょうか。バアルとは主という意味です。私たちクリスチャンは地上の誰をも、父とも先生とも主とも呼んではいけないものです。ですから、これも器崇拝をさすことがわかります。「バアルや太陽や月や星座や天の万象」との表現に注目して下さい。太陽、月、星座は似た範疇のものであり、平行的に記されています。そして、同じように、バアルもそれらと平行的に記されているのです。

これは不思議な表現です。普通に考えるなら、太陽や月や星座とバアルは全く違うものだからです。しかし神の前にはこれらは似たもの、同じ範疇のものなのです。すなわち、バアルを拝むことと、太陽や月や星座を拝むことは同じことであり、それは等しく、器崇拝の罪のたとえなのです。

”21 王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、あなたがたの神、主に、過越のいけにえをささげなさい。」
22 事実、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代からこのかた、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえがささげられたことはなかった。
23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、イスラエルでこの過越のいけにえが主にささげられただけであった。”

ここで過ぎ越しのいけにえがささげられています。イスラエル、ユダの王が神の前にいけにえを捧げることは、普通のことです。しかし、この時代のいけにえは特記すべきものであるようです。

”イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも”なかった、すなわち、今でいえば、教会時代に、かつてなかったいけにえがこの時代にささげられたわけです。これは何を意味するものでしょう。

聖書的にいけにえとは何をさすのかをとらえなければなりません。パウロが自分自身をいけにえとして捧げると書いた時、彼は何を意味したのでしょう。それは彼の殉教のことをさしていたのです。ですから、いけにえは神の前に自分をささげる、すなわち、クリスチャンの殉教をさすたとえなのです。

ですから、もしこれらが後の日に関する予表なら、この時代に教会時代にかつてなく、今後もないような殉教がおきることをさしているのです。

”24 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。これは、祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法のことばを実行するためであった。”

ヨシヤ王が「霊媒、口寄せ」を除き去ったことが書かれています。これは何の罪をさすのでしょう。霊媒、口寄せとはすなわち、死人に伺いをたてることです。生きている者のために、死人に伺いをたてることです。ですから、このことのたとえとしての意味合いはこういうことです。すなわち、主により死人から生かされた存在である、我々、クリスチャンが死人であるこの世の人の意見、考えに伺いをたてること、その罪について語っているのです。

そしてここにも、”祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法のことばを実行するためであった。”と書かれています。ですから、このリバイバルの時代に神のみことばが再発見されること、多くの曲げられたり、変形されてしまった、神のみことばがあるべき位置に戻ること、これがいかに大事なことであるかわかります。

”25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。
26 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。”

このような空前絶後のリバイバルがおこりながら、しかし神の民は滅び、裁きに向かっていったのです。終末にも神の民は同じような歩みをします。終末に関して、7年の空前絶後のリバイバルの後、7年のききんの時が預言されているからです。

”マナセが主の怒りを引き起こした”と書かれています。マナセは「忘れる」という意味です。神の民が終末に神を忘れることの暗示と思われます。また、”マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ない”と書いてあります。ここで、ある特定の行いについて書かれているのです。この”行い”とは何でしょう。これは、マナセが罪のない人の血をエルサレムで流したことです。このことがユダー神の民のさばきの一番大きな理由となるのです。そして、こ
の血を流すことは、終末におきてくる殉教の予表です。終末の神の民の裁きも殉教者の血が流されたことを大きな原因として起きてくるからです。

”27 主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」”

ここで、イスラエルだけでなく、ユダ、エルサレムが神の前から、移され、退けられると書いてあります。このことは具体的には、ユダ、エルサレムが彼等の先祖のゆずりの地からバビロンへと捕え移されることを意味しています。先祖のゆずりの地とは約束の地のことであり、それはクリスチャンにとっては、永遠の命の約束です。ですから、終末には永遠の命を失う多くのクリスチャンがいます。このことは前もって警告されているのです。

これらのことはそのまま、終末の淫婦バビロンの予表です。ですから、終末のバビロンについて考える時、その範囲をあまり小さく限定すべきではありません。終末の日にどれ程多くのクリスチャンがバビロンの中に含まれるのでしょうか。そのヒントは他でもない、このユダの歴史の記事の中にあるのです。これは私の個人的な見解ですが、私はこう思っています。旧約時代の全てのユダの民のうち、バビロンへ捕えられていった人々の割合は、そのまま終末の日にバビロン化する神の民の数の割合を示唆するのではないかと。
 

”29 彼の時代に、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。
30 ヨシヤの家来たちは、彼の死体を戦車にのせ、メギドからエルサレムに運んで来て、彼の墓に葬った。”

さて、このように空前絶後のリバイバルをもたらしたヨシヤ王ですが、彼の最後は決して祝福に満ちたものではありませんでした。彼はパロネコによりメギドで戦死したのです。このメギドという地名に注目して下さい。メギドはハルマゲドンに通じます。何故なら、ハルマゲドンとは「メギドの丘」という意味だからです。

ハルマゲドンにおいては王達が、汚れた霊に惑わされて戦いに出ていき、結果として死に至ります。以下の通りです。
 

 ”黙16:14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
15 「「見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。「「
16 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。”

この王達とは、異邦人の王のことではありません。それは、このヨシヤ王の箇所からもわかるように神の民の王について述べているのです。彼等は終末に働く惑わしの霊に惑わされ、結果として自分に死を招くのです。

何故、このようにすばらしいヨシヤ王がメギドで滅んでしまったのでしょうか。これは、我々に警告を与えるものです。我々はこのことからの警告を受けていくべきです。この事実はこのことをさすのではないかと私は思っています。

一つはリバイバルはハッピーエンドで終わるわけではないということです。逆に聖書に書かれているように7年のリバイバルの後には7年のききんが来るのです。その後半は大患難時代です。その時、リバイバルで救われた多くの人びとはどうなるのでしょう。決して多くは残らないのでしょう。逆に惑わしの霊に入っていくのかもしれません。このヨシヤ王のメギドにおける死はそのことを暗示しているのかもしれません。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー

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