通算No.163 見つかった律法

テキスト:”列王記第二 22:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。
2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。
3 ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを主の宮に遣わして言った。
4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、主の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、
5 それを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しなさい。それを主の宮で工事している者たちに渡し、宮の破損の修理をさせなさい。
6 木工、建築師、石工に渡し、また宮の修理のための木材や切り石を買わせなさい。
列王記第二 22:7 ただし、彼らの手に渡した金を彼らといっしょに勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである。」
8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「私は主の宮で律法の書を見つけました。」と言って、その書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。
9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告して言った。「しもべたちは、宮にあった金を箱からあけて、これを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」
10 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを読み上げた。
11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。
12 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム(私の兄弟はたつ)、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、(岩たぬき)王の家来アサヤ(エホバによりつくられた)に命じて言った。
13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。」
14 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女は、ハルハス(貧しい)の子ティクワ(希望)の子、装束係シャルムの妻で、エルサレムの第二区に住んでいた。彼らが彼女に伝えると、
15 彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。
16 主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。
17 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。』
18 主のみこころを求めるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、主は、こう仰せられます。
19 あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。「「主の御告げです「「
20 それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。”

本日は「見つかった律法」という題でメッセージします。ヨシヤ王の時代に律法が見つかるという”事件”がありました。そのことに関して聖書が語っていることを見ていきたいと思います。テキストに沿って見ていきます。

”1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。
2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。”

彼は”先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。”王です。もし、イスラエルの王達の歴史が教会時代の予表だとしたら、彼、ヨシュア王の時代にはみこころがあります。何故なら、我々も”道であり、真理である”といわれた主の道に、”右にも左にもそれない”ことを望む者だからです。

3 ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを主の宮に遣わして言った。
4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、主の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、
5 それを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しなさい。それを主の宮で工事している者たちに渡し、宮の破損の修理をさせなさい。
6 木工、建築師、石工に渡し、また宮の修理のための木材や切り石を買わせなさい。
列王記第二 22:7 ただし、彼らの手に渡した金を彼らといっしょに勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである。」”

彼の最初の仕事は”宮の破損の修理”でした。彼は宮の損なわれた箇所を修理したのです。これは、エズラ、ネヘミヤ、ゼルバベル達の働きに通じるものがあります。彼等も都や宮を建て直し、修理したからです。そして、これは、終末の日に起こされて来る教会回復の働きの予表です。ヨシュアは終末の日に復興ーリバイバルのわざをなす者達の型です。

”10 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを読み上げた。”

ヨシヤ王に関しては以下のように書かれています。

”ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。”

ここで最大級の賛辞が送られています。かつてなく、今後もない程、主に立ち返った王なのです。さて、この王はすばらしい王なのですが、この王を通して私たちに神が語ることがあるでしょうか。

イスラエルの王達、また王国(kingdom)の歴史は神の国(kingdom of heaven)である教会の型、予表ではないかと私は思っています。もし、仮にそうだとするなら、ヨシヤ王は教会のどのような時代を予表するのでしょうか。

教会時代にもかつてなく、今後もないような刈り取り、回復、真理の復興の時が来ることを聖書は預言しています。それは終末のリバイバルの時であり、またそれは崩れていた宮の再建、すなわち「主に立ち返る」時なのです。ヨシヤ王の時代はこの終末のリバイバルの時の予表ではないかと私は思っています。

ここで「書記シャファン」が王に律法が見つかったことを告げています。さて、このこと、律法が見つかったこと、これがヨシャの時代における大事件だったことがわかります。この律法が見つかったことが、王や民の深刻な悔い改め、神への立ち返りをもたらし、多くの偶像の廃棄をもたらしたのです。このことに大きな意味があることがわかります。

このことが、もし終末の時代に関する予表だとしたら、何を我々に語るものでしょうか。
私はこのように思います。教会時代においてもこの律法の再発見に相当することがらがリバイバルの前に起きてくるのではないかと思うのです。

この律法の再発見ということを通して神が語ろうとしていることはどういうことでしょうか。一つわかることは、これは、全く新たに神のことばが書かれるということではないということです。神のことばはすでに何百年も前に書かれ、神の民に渡されていました。そして、そのことばは神の宮の中に存在していたのですが、しかし誰も気付かなかったのです。しかし、ある日それは、発見され、そしてそのことばを読んだ人々の間に深刻な悔い改め、復興、神への立ち返りをもたらしたのです。そして、このような日が終末のリバイバルの前におそらく来るのでしょう。

もちろんその時に新しく、67番目の聖書が発見されるというわけではありません。そうではなくて、終末には、神の律法ー神のみことばが新しく再発見される時がくるのではないかと思っているのです。たとえば、終末の預言のことばがそうです。今まで、はっきりしなかったことばがはっきりと見え、これらの聖書のことばが実は教会のさばきを語っているのだとわかった時、神の民の間に深刻な悔い改め、また回復、神への立ち返りが起きないでしょうか。

ここには、「書記シャファン」と書かれています。書記ということばはまた、律法学者とも訳せることばです。ですから、この「書記シャファン」とは、終末における神のみこころを行う聖書学者をさすのかもしれません。彼等は律法ー聖書を再発見するのです。また、シャフアンとは岩たぬきという意味です。岩ー弟子の歩みに立つ人々を予表していることがわかります。

”シャファンは王の前でそれを読み上げた。”とあります。
このことばも語りかけがあることばです。どんな文章でもそれを読み上げてくれる人がいるなら、それを聞く人は、理解でき、また納得するのです。逆に読む人がいないなら、それらのことばの意味は伝わらないのです。

たとえば、私の小学生の娘が自分のバッグの絵と文字をさして私に尋ねます。そこには天使の絵とともにfallen angelと書いてあります。小学生には英語の文字はわからないのです。しかし、その意味を読んでくれる大人がいれば、それを聞いて子供は納得するのです。

何故、書記(律法学者)が律法を読みあげたと書いてあるのでしょう。何故、祭司またはレビ人ではないのでしょうか。それはこのことばが予表だからです。終末の日に確かに神のみことばが再発見される日がきます。そしてそれは神のみこころを行う聖書学者により、読まれ(理解され)、朗読(人々に伝えられる)されるのです。、

”11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。”

王はこの”律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた”のです。ですから、聖書のことばが開かれること、再発見されること、読まれることがいかに大事かがわかります。

今の時代、多くの神の民がその衣を裂こうとしない、現状に何も問題を感じないのは、”律法の書のことば”が読まれていないからです。いかにこの時代に神のみこころに立った書記(聖書学者、教師)の働きが必要かわかります。

”12 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム(私の兄弟はたつ)、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、(岩たぬき)王の家来アサヤ(エホバによりつくられた)に命じて言った。
13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。」”

この時見つかった律法に関して一つの特色があります。それは、この律法の再発見により、神の民が神のいかり、裁きについて正しく認識するようになったということです。”私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから”と書かれている通りです。

律法が再発見されたとはいっても彼等はそもそも異邦の民ではなく、神の民です。祭司もいるし、宮もあり、神に仕えることを知らないわけではないのです。しかし、この律法の再発見により、初めて、彼等の上には、神の怒り、裁きへの正しい認識が再復興したのです。この律法の再発見という事実がいかに大事なことであるか、聖書は確かに語っているのです。

そして、このことは確かに終末の予表です。終末にも確かに神のみことばがあたかも”再発見”されたかのように開ける時がきます。いいえ今きつつあるのです。そして、これらのことばが開けることと、終末のリバイバルとは大きな関係があるのです。

14 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女は、ハルハス(貧しい)の子ティクワ(希望)の子、装束係シャルムの妻で、エルサレムの第二区に住んでいた。彼らが彼女に伝えると、
15 彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。
16 主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。
17 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。』”

ここで女預言者を通して律法のことばが正しいこと、確かにこれらの神の裁きは来るべき日に神の民であるユダの上に行われることが語られます。再発見された律法のことばは確かに神の民の未来、裁きを正しく預言していたのです。”ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。”といわれている通りです。

”18 主のみこころを求めるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、主は、こう仰せられます。
19 あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。「「主の御告げです「「
20 それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。”

しかし、この律法のことばをきいて、”心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いた”神の民と王に関しては”あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。”といわれます。彼等は来るべき裁きのときから免れ、救われることができたのです。

これは、確かに終末の裁きの時の予表です。終末にもこの再発見された律法のことばに聴き、悔い改め、裁きから免れる人々がいるのです。

ですから、終末のみことばが今の時代に開かれつつあるのなら、その目的ははっきりしています。それは、ただ人々を恐怖を与えたり、聖書のとっぴな解釈を述べるために開かれているのではありません。

逆に、神の民が来るべき裁きの時について、はっきりした認識を持つこと、そして、”心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き”一人でも多くの神の民が神の前に立ち返るためなのです。

終末における神のみこころを行いたいと思います。

ー以上ー

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