No.151 食事について

テキスト: ”ヨハネの黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”

本日は「食事について」という題でメッセージしたいと思います。
聖書の中には、よく「食事をする」という表現が出てきます。このことばの意味を見ていきたいと思うのです。聖書をよく読むとこの「食事」という表現が聖餐式についての記事とともに出てくることがわかります。以下を見て下さい。
 

”ヨハネの福音書 13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが”

これはイエスとその弟子達の最初の聖餐式に関する記事です。そしてこの最初の聖餐式はそのまま最後の晩餐、すなわち、食事の時でもあったのです。すなわち、聖餐式とはそのまま「食事」なのです。
聖書はそのように記しているのです。同じことは、聖餐式でよく引かれる以下の記述にも記されています。

”1コリ11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。”

この聖餐式に関する記事の中には、食事に関する表現がことさらのように何度も出てきます。以下の通りです。

”あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。”
” 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。”
”22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。”
”25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。”
”33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。”

これらは聖餐式とは実は、別の表現で「食事」だということを私達に気付かせるために、我々にあたえられたヒントなのです。さて、この事実がわかってくると冒頭のテキスト、ラオデキヤの教会の問題点がわかってきます。

” ヨハネの黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

この教会の問題点とは何でしょう。一つは家、すなわち、この教会の中にイエスがおられない、追い出されているということです。イエスは戸の外に立っています。この記述はまた、2テサ2章に記されている”とどめている者が取り去られる(追い出される)時”を別の形で表現したものでもあります。反キリストの働きをとどめていた聖霊として来られた主イエスが、この教会の時代に教会の外に追い出されるのです。
もう一つの問題は最初の問題に付随したものです。
彼らが聖霊を教会から追い出したために、その結果、彼らの食事、すなわち聖餐式には、主イエスが出席されなくなったのです。その結果、この教会の信者達は聖餐式を毎回行いながら、しかし、実際は、キリストの体なる命のパン、生けるみことばを受けない、またキリストの血なる聖霊を受けないことになるのです。少数のキリストの声を聞いて戸をあける者以外は、このような状態になるのです。

この教会の人々は聖餐式から、主を締め出し、一体全体何のパンを食べ、何の杯を飲んでいるのでしょうか?彼らには以下のことばが成就しているのではないでしょうか。

”1コリ10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。”

もしそうなら、彼らが悪霊の杯を飲む教会なら、彼らはすなわち終末の日に、神に憎まれる姦淫の杯を受けるバビロンそのままではないでしょうか。

また、このこと、すなわち食事とは、聖餐式、であり、主の体のパンと主の杯なる聖霊に預ることだとわかると、以下の記述も理解できます。

”ルカ13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」”

キリストに拒絶された人々が、”『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』”という時、これは何を意味することばなのでしょうか?
「食べたり飲んだり」、すなわち食事に関わる表現がヒントです。これは、聖餐式のパンとぶどう酒をさすものであり、彼らは教会の聖餐にあずかった者達なのです。また、「私たちの大通りで教えていただきました。」とは何をさすのでしょうか。これはこういう意味です。かつて、キリストに教えてもらったと彼らは言っているわけなのです。キリストが人々を教えるのは教会であり、彼らは教会に出席していた人々なのです。ですから、彼等はクリスチャンといわれる人々なのです。
ですから、惑わされてはいけません。教会に出席していた者、主の聖餐にあずかった者達の中からも、
その時には裁かれる者が出てくるとみことばは明確に語っているのです。

ですから、私達はこの面においても神学ではなく、神のみことばに目をとめなければ、なりません。
神学がどう語るか、人の学問がどういうかは一つのことです。しかし、それが全て正しいわけではないのです。間違えやすい人間が色々意見を言っているのにすぎません。そんなものに基づいて神のことばを曲げてはいけないのです。神のことばは昔から、変わらず、変化せず、そして、我々に対して、「努力して狭い門からはいりなさい。」と語っているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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