通算No.146 小羊のような2本の角を持つ獣


テキスト:”黙示録13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。”

本日は ”小羊のような2本の角を持つ獣”という題でメッセージします。

この獣は何をあらわすのかを見ていきたいと思うのです。
テキストを順番に見ていきます。

”もう一匹の獣が地から上って来た。”

この前の節にある7つの頭と10の角を持つ獣は政治的、国家的獣です。そして、この小羊のような角を持つ獣は宗教的です。ですから、終末の時にはサタンは2種類の方法で神の聖徒を迫害するようになります。あたかも主イエスがバリサイ人達(宗教)、そして、ポンテオピラト(政治)の下で苦しみにあったようにです。

”それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。”

この獣が何かをはっきりとらえられなければ、私達はしかるべき終末の備えができません。この獣は具体的にはどういうものなのでしょうか。一つのヒントは”小羊のような二本の角”です。このことばを変えて
”小羊の二本の角”と書いてみましょう。はっきり意味がわかってくるのではないでしょうか。
小羊は主イエスキリストです。それではキリストの2本の角とはなんでしょうか?角は
王をあらわします。”10本の角は10人の王”と書かれている通りです。王がいる以上、王国があるわけです。だから、この時、小羊のような2つの王国があるわけです。
旧約時代、神の民の王国は実質的には2つに分裂していました。北のイスラエル王国と南のユダ王国です。そして、イスラエルにもユダにも王が立っていました。この2つの王国は元は一つであり、神に喜ばれるダビデ王から始まり、その歩み、領土は神に祝福されていたのです。しかし、時代とともに不信の道を歩み、北イスラエル王国はアッシリアへ捉え移されてしまいました。彼等は先祖のゆずりの地から移されてしまったのです。彼等は終末の日に、先祖達が受け継いだ”みくに”を受け継がない者の型です。同じことがダビデから14代目のユダのバビロン補囚の世代にもいえます。彼等も先祖のゆずりの地にとどまることができず、捕え移されてしまったのです。この14代目の世代は7つ目の教会の世代の型です。14は7の倍数であり、数字の上で関係しています。

イスラエル、ユダという2つの神の王国の最後に捕囚があったように、教会時代の最後に2つの”小羊のような2つの角”、王がおり、2つの王国があるのです。これは新約の神の国、教会の最後の姿です。
この国は捕え移された者達です。”小羊のような”ということばのように、彼等にはキリスト教会の形はあります。しかし、神の前には彼等は実質的には獣なのです。

”竜のようにものを言った。”

形は小羊(キリスト)でも、その語ることは竜、サタンのことばです。終末にはそのような教会になるというのです。今、このようなことは、すでにかなり教会に浸透しています。地獄を否定したり、進化論を肯定したり、創世記を神話だといったり、これらは皆サタンのことばではないでしょうか。

”12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。”

最初の獣は7つの頭と10の角を持つ国(EU?)です。この獣の権威を働かせるとはすなわち、この国の権力や法律を最大限に利用するのでしょう。そして、真に神につく神の民を迫害するのです。イエスの時代の長老、律法学者はローマの権力、ピラトの権力の下でイエスを十字架につけました。また、パウロもローマ権威の下の裁判の中で、ユダヤ人に訴えられたのです。同じようなことが終末の真の神に起きます。

”また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。”

地に住む人々は本来天の住人であり、星であるべき、この世についた、天から落ちたクリスチャンのことです。彼等は獣を拝みます。あたかもネブカデネザル王をバビロンの住人(彼等はバビロン化された教会の信者の型)を拝したようにです。しかし、神につく終末の日のシャデラク、メシャク、アベデネゴはこれを拝まないでしょう。そして、終末の日にも生きて居られる神は彼等を火の燃える炉のような試練から、助け出されます。繰り返します。助け出されるのです。以下のことばの通りです。

”ヨハネの黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”

終末だから、大患難時代だからといって全ての人が殉教するとは限らないでしょう。終末の試練から助け出されると神は語っておられると私は思います。

”13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。”

”火を天から地に降らせる”とはどういう意味でしょう。その鍵は以下のことばにあります。

使徒2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。”

これはペンテコステの時の「聖霊の火」が下った時の描写です。ですから、この獣の教会でも、あたかも聖霊のような火が下るのでしょう。獣の霊により、偽リバイバルが起こり、偽ペンテコステがおきます。

”14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。”
 

「しるし」と書いてあります。獣の霊による偽のしるしと不思議が行われるのでしょう。ですから、聖霊の声やみことばに聞くより、しるしと不思議、また人間の器を追い求めていく人はこの時、惑わされます。

15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。”

”獣の像”とは何でしょうか。犬か猫の像でも拝むのでしょうか。この像(image)
ということばは以下のことばと同じです。

コリント人への手紙第二 4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたち(
image)であるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

神のかたち(image)はキリストです。同じように獣の像(image)は反キリストです。ですから、この像は反キリストのことではないかと思われます。ところで、どうして、聖書は反キリストのことを像ということばで語るのでしょうか。ここには隠された意味合いがあります。これは以下のことばと関係があります。

”出エジプト記 20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。”

教会へ通いながら、その帰りにお地蔵さんを拝んだり、仏像を拝むクリスチャンがいるとは思えません。それなのに、何故新約のクリスチャンが繰り返し10戒を読まなければならないのでしょうか。
私はこの10戒の教えはクリスチャンにあてても書かれたものであると信じています。このことばの真にいわんとしていることは、器崇拝への警告なのです。今、人々は多くの人間の器、聖人を拝しています。このことを神はねたんでおられます。この罪が極みへ達し、神のねたみが極みに達した時、その終末の日に人々は究極の偶像、獣の像、反キリストを拝するようになるのです。今、私達は悔い改めるべきです。

”息を吹き込んで”

息は”霊”と同じことばです。この反キリストは宗教的な活動をもするのでしょう。そして、
”霊”を下すこともするのでしょうか。

獣の像がもの言うことさえもできるようにし”

この”もの言う”ということばはイエスが群衆にメッセージした時使われたことばと同じです。恐らく反キリストが教会の中でメッセージをするようになるのでしょう。

”16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。”

”小さい者、大きい者”とは以下の表現と同じです。これはクリスチャンの間で使われる表現です。

”ルカの福音書 9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉い(大きい)のです。」”

”富んでいる者、貧しい者”は以下と同じことばです。これも同様にクリスチャンの間で使われる表現です。

”ヤコブの手紙 2:5 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。”

”自由人、奴隷”も”罪の奴隷”のように、クリスチャンと関連して使用されることばです。

ですから、これらの刻印を受ける人々はクリスチャンです。彼等はその額に刻印を受けるわけですが、それは、小羊の印を額に受ける14万4千人の人々と対比しています。片や獣の印を受ける神の民がおり、片や小羊の印を受ける神の民がいるのです。

この箇所のテキストは以下のように興味深い順番になっています。

a)黙示録13:11ー終り: 獣とその像(反キリスト)について、そしてその名を額に受ける人々の 記述
b)黙示録14:1ー5:小羊の名が額にある14万4千人の人々の記述
c)黙示録14:9-11: 獣とその像の額に受ける者は裁かれるとの記述

ですから、獣の像の印と小羊キリストの印とは対照的に書かれているのです。繰り返しますが、小羊の印を受ける神の民がおり、獣の像の印をうける神の民がいるのです。これらの2種類の神の民について語っているのです。

そして、もう一つのことがわかります。小羊の印とは聖霊の印、聖霊のバプテスマ、目に見えない霊的な印です。同じように、獣の印も目に見えないものかも知れません。獣の霊によるバプテスマかもしれません。もしそうでしたら、最近現われている”獣のリバイバル”は危険なものです。

”17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。”

この”買うこと、売ること”は以下のことばと同じです。

”マタイの福音書 25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも(売る)店に行って、自分のをお買いなさい。』”
 

これは賢い花嫁、愚かな花嫁の話であり、売る、買うのは聖霊の油のことです。ですから、"
あの獣の名...を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。”とは、
獣の名を持っている者、獣の働き人以外には人々に霊のバプテスマ、按手を施すことができないようにすることかもしれません。

これは、私の想像なのですが、右手と額という組み合わせにも何か意味合いがあるように感じるのです。これは教会で按手をする時の組み合わせのようにも思えるのです。すなわち、按手する時は右手と額が組み合わされます。具体的には器、奉仕者が右手を私達の頭、額に置き、霊を按手するのです。ですから、悪霊の按手を教会で受ける時代が来るのかもしれません。

”18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。”

666の数字は何をさすのか、判読は難しいのですが、聖書は少なくとも一つのことを語っています。
旧約聖書の中で1箇所だけ、この数字が出てくるところがあります。以下のソロモンの箇所です。

”歴代誌第二 9:13 一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。”

ですから、少なくともソロモンが666の数字と関連していることはわかります。そして、いつか別途詳しく見ていきたいのですが、ソロモンは聖霊の型なのです。ダビデはイエスの型であり、ソロモンは聖霊の型なのです。

ですから、今までの結論として、反キリストの働きは霊的なものが多く、これは聖霊の働きと対比するものであることがわかります。

何故そうなっているのでしょうか。それは、また別の面の神の裁きなのです。教会時代は肉体を持たれたキリストの時代ではなく、神の霊である聖霊の時代です。聖霊は今まで、反キリストの霊の働きをとどめてこられました。以下のことばの通りです。

テサロニケ人への手紙第二 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。”

自分が取り除かれる時とは、追い出される時のことです。ですから、教会が聖霊ご自身を追い出す時が来ます。いいえ、もうきつつあります。私達が霊を見分けたり、誤りに入らないですむのは、この聖霊がおられて始めてできるということを思い出しましょう。引き止める方、聖霊が教会から離れていく時、敵は教会の中へ入り込み自由に惑わし、働きを拡大します。今、怪しげなリバイバルがいくつもあるのは、すでにその時に突入しつつあることを語っているのです。

ですから、終末の時代における、反キリストの働きの特徴は聖霊に似ているが、しかし、実際は悪魔から来た霊に関するものなのです。

終末における主のみこころをおこないましょう。
 

ー以上ー

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