通算No.140 たとえで成就する預言

キスト:”マタイ2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。”

本日は「たとえで成就する預言」という題でメッセージしたいと思います。

終末に関しては多くの預言があります。しかし、それらの預言はどのように成就するのでしょう。これらは文字通り、書かれていることばの通り、成就するのでしょうか。それとも、何かのたとえなのでしょうか。それを見ていきたいと思います。

終末の預言、たとえば黙示録を見ると、多くの天変地異について書かれています。すなわち、星の1/3が落ちたり、太陽や月の1/3が打たれたりするのです。これらは文字通り起きる天変地異のことを言っているのでしょうか。それとも、何かをさすたとえなのでしょうか。

さて、黙示録の時代は未来の時代です。ですから、誰も確定的なことはいえないのです。必ず、こうなるということは誰もいえず、逆にあらゆる解釈が成り立つわけです。一体聖書の預言はどのように成就するのでしょう。

しかし、このことに関して実はヒントはすでに聖書の中で与えられています。我々がよく聖書を読むなら、主は預言の成就に関しても、もうすでに一つの例、パターンを我々に与えておられることがわかります。
 

何を言っているのでしょうか。すなわち、主の初降臨のことをいっているのです。主イエスの初降臨に関しては、それ以前に聖書の預言で語られていました。そして、その成就が主の初降臨だったのです。

このことの中に、聖書の再臨の預言がどのような形で成就するかということに関して、示唆、ヒントがないでしょうか。

さて、冒頭のテキストは主イエスの誕生の時のできごとを記しています。ここで、東方の博士たちは「ユダヤ人の王」についてヘロデ王にきいています。その時、”ヘロデ王は恐れ惑った”のです。また、”エルサレム中の人も王と同様であった。”のです。何故なら、ヘロデ自身がその時のユダヤ人を治める王であり、もし本当にユダヤ人の王となる人物が生れてきたのなら、自分の王位が危ないと彼は思ったのでしょう。

ですから、この時、ヘロデを初めとするユダヤ人達は、キリストに関する「ユダヤ人の王」という預言のことばを文字通り、この地上で見える形で成就する預言だと思っていました。何故なら、キリストに関してはこのように前もって預言されていたからです。

1歴17:11 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。
13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。”

この預言を読み、学び、研究したユダヤの律法学者、パリサイ人達はこのように解釈しました。
1)キリストはダビデの子孫として、地上の王として来る。
2)その地上の王座は固く立つ

彼等がそのように、解釈したとしても,あながち無理のないことでした。何故なら、確かに聖書には「あなた(ダビデ)の世継ぎの子」と書いてあり、「彼の王国を確立させる」と書いてあるからです。

アブラハムが信仰の父として知られ、モーセが律法を与えられた者として知られているように、ダビデは王として知られているのです。「ダビデの世継ぎの子」「彼の王国を確立させる」と聖書が語る時、この預言された人とはこのイスラエルを治める王のことだと彼等が思ったとしても誰が責められるでしょうか。

しかし現実はどうだったでしょうか。聖書は以下のように成就したのです。
1)キリストは地上の王としては来ず
2)その王座はこの地上のものではなく、天の世界のものであった

いわば、上記1歴17章のダビデへの約束は霊的に成就し、たとえとして成就したのです。結果として多くのユダヤ人がイエスをキリストとして正しくとらえることができませんでした。ナザレからきた大工の子を彼等が受け入れられなかったのです。

ユダヤの律法学者、パリサイ人達は正しく預言をとらえることに失敗してしまったわけです。一体彼等のどこがまずかったのでしょう。彼等の聖書の研究手法に何か間違い、誤りでもあったのでしょうか。

人間的に考えるなら、彼等を責められないように思えます。私たちが彼等と同じ立場で同じ聖書のテキストを読めば、同じように解釈してしまうかもしれないのです。

悪くいえば、このダビデの預言は「だましうち」「わな」のようなものだとさえいえるかもしれません。誰がどのように読んでも間違える不可抗力のようなものです。しかし、そうではあっても、聖書の初降臨の預言は歴史の上でまさにこのような形で成就したのです。

ですから、私たちは、このことを知らなければなりません。初降臨の時の主イエスは、誰もが、聖書の預言から、理解、期待していたような形で来られたわけではないのです。逆に初降臨の預言は、多くの人をつまづかせることを意図しているかのような形で、成就したのです。

そうです、あたかもつまづかせることを意図しているかのように、主の初降臨は行われたのです。そして、このことは以下の預言の成就です。

1ペテロ2;6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、
8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。”

何故、神がこのような形で、人々の意表をつくような形で、主イエスの初降臨を成就したのか、その理由がここにはっきりと書かれています。

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。”

神は、長い間、イスラエルの神の民を忍耐してこられました。しかし、永遠に忍耐するのでなく、ある定まった時に、神のみことばを曲げ、従わず、行わない人々の裁きを計画されており、それがキリストの初降臨の時だったのです。ですから、キリストの初降臨の預言はみことばに従わないユダヤ人、律法学者、パリサイ人をつまづかせるために用いられたのです。実は”初降臨の預言”の意図はそこにあるのです。

そして、このことは終末の主イエスの再臨の預言の型なのです。同じことが終末の預言に関しても起きます。終末の預言もみことばに従わない、行わない新約の神の民をつまづかせるために用いられるのです。

ですから、意図が違うのです。このことをはっきりと知らなければなりません。終末の預言の意図は私たちが思っているものとは異なります。これらはわなとして。つまづきの石として用意されたものであり、多くの人がつまづくようになっているのです。

たとえば、黙示録にしてもこれは「わな」の書であり、「つまづき」の書なのです。多くの人をつまづかせるのを意図した書なのです。

例をいいましょう。冬の寒い朝に道路に水をまいてはいけません。道が凍って人が滑るからです。朝、わざわざ道に水をまいている人がいれば、「危ないじゃないか」と文句をいわれてもしかたありません。

しかし、スケート場に行って、氷が滑るから、ころぶからと文句をいってもしかたありません。スケート場はそもそも滑るところだからです。

同じように、何故、黙示録が難しいのか、理解しづらいのかと文句をいってもしかたありません。これは”多くの人々をつまづかせる”ために用意された書だからです。

また、初降臨の時、多くの人がつまづいたことは、終末の日に起きることの予表です。ですから、終末の預言の成就に関しても以下の2つのことが起きると思われます。

1)多くの人が理解、期待していたような形では終末の預言は成就しない
2)その結果、神のことばに従わず、行わない多くの神の民がつまづく

さて、具体的な預言の成就の方法について考えてみましょう。初降臨の時の預言は霊的に、たとえとして成就しました。このことは終末における預言の成就のヒントにならないでしょうか。いいえなると思います。

たとえば、終末にはエルサレムの神殿についての預言があります。主は確かに終末の日に関連して、宮の崩壊について、語りました。それで、多くの人がエルサレムの宮の建設に注目しています。

現在は宮のあったところにイスラム教の寺院が建っています。現在は、神殿の土地も場所も、イスラム教徒の所有です。その聖地をユダヤ教の神殿を建設するため、明け渡せとは、交渉しずらいことです。事実、交渉や申し出が行われたとも、少なくとも私はきいたことがありません。神殿の崩壊の預言どころか、まだ神殿そのものも建っていない、その予定さえ立たないということなら、主の再臨もまだまだ先のように思えます。ですから、終末の時もまだまだ先のことということになります。しかし、この預言はわなとなり、またつまづきとなるかもしれません。

何故なら、主イエスの神殿に関する預言は具体的な建設物である神殿をさすとばかりはいえません。逆に宮の崩壊とは、キリストのからだなる教会の崩壊をさすたとえの預言ととれると思えます。

キリストの初降臨の預言はたとえとして、また霊的に成就しました。キリストの再臨の預言も、その多くはたとえとして、また霊的な成就が多いことが予想されます。

終末における主のみこころを行っていきたいと想います。

ー以上ー
 

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