通算NO.136 偶像崇拝に関して

テキスト: ”ロマ1:25 それは彼等が神の真理をいつわりと取り替え、つくり主のかわりにつくられたものを拝み、これに仕えたからです。”

本日は 「偶像崇拝に関して」という題でメッセージしたいと思います。テキストの箇所を見て下さい。ここにユダヤ人とギリシャ人の罪が書いてあります。それは大別すると以下の2つです。

1 真理がいつわりととりかえられていること。 

2 つくり主、神よりも被造物を排する

さて、これらの問題は第一義的には異邦人の罪に関するものです。しかし、それにとどまらず、新約の神の民であるクリスチャンにも通じるものがあります。黙示録には多くの罪についての裁きが記されています。 しかし、特にこの2つの罪に対して多くの裁きが記されているのです。このロマ書で記されている神の怒りは以下の啓示ということばからもわかるように黙示録(啓示録)とかかわりがあります。

”ローマ人への手紙 1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。”

黙示録に示されている偶像崇拝の罪、すなわち器崇拝の罪に関する記事を以下のように、いくつかとりあげ、学んでいきたいと思います。

1)”ヨハネの黙示録 9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、

多くのクリスチャンは、自分は偶像崇拝とは何の関係もないと思っています。自分は仏の像も、マリヤの像も拝んだことがないのだから、何も関係ないと思うのです。しかし、聖書が偶像崇拝について語る時、実は器崇拝の罪に対して警告して語っているのです。

”金、銀、銅、石、木で造られた”偶像とは何でしょう。金銀とは聖書の中で、度々信仰に関連して述べられています。ですから、これは、信仰のすぐれた器を拝むことについて語っています。また、聖書の中で、石とは主の弟子について語られています。ですから、石で作られた偶像とは、主の弟子を拝む危険について語っているのです。また、木とは神の民をさすものです。オリーブ、ぶどう、いちじく等の木は神の民をさすのです。ですから、これらは皆神の器を偶像にすることをたとえとして述べているのです。

”見ることも聞くことも歩くこともできない偶像”と書いてあります。偶像が見ることも聞くこともできないのは当然ですが、ここにわざわざこのように記されていることには意味があります。これらのことばは以下のイザヤのことばをふまえたものなのです。

使徒28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

ですから、これらの偶像は霊の目も耳も開かれていない、そして歩くこともできない、すなわち、行いもない器をさして語っているのです。

2)”ヨハネの黙示録 16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
15 「「見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。「「
16 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。
17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。
18 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。”

ここではハルマゲドンの戦いについて書かれています。王達が”しるしを行なう悪霊どもの霊”により惑わされて集まります。また、王達がここで裁かれることが暗示されています。

何故、王達が裁かれるのでしょうか。王についてパウロがこのように書いています。

”1コリント4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。”

ですから、彼等はキリストをさしおいて、すでにこの世で王となっている器達であることがわかります。そして、彼等は裁かれるのです。

3)”ヨハネの黙示録 19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」”

ヨハネの黙示録 22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」”

黙示録の中で、ヨハネはみ使いを拝もうとしています。そして、それをとどめられています。しかもそれをあろうことか2度も繰り返しているのです。

このことの中に何か語りかけがないでしょうか。み使いということばの原語にはmessengerという意味も含まれます。この場合、人間のいわゆるmessengerのことをさします。ですから、この箇所は、人間の器を拝むことの罪を警告して語られたことばともとれます。

ですから、ここでも偶像崇拝、器崇拝に関する警告が暗示されているのです。

4)”ヨハネの黙示録 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。
17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」”

”王の肉、千人隊長の肉”を食べよ”と書いてあります。また、ここで登場するキリストに関しては”その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた”というように真の王であることが強調されています。

これは、何を暗示するものでしょうか。彼等が何故裁かれるのか、その罪が暗示されているのです。これは、神の民の真の王である方に栄光を帰さなかったからではないでしょうか。このことは、以下のバリサイ人、律法学者の罪に通じるものがあります。

マタイ23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。”
 

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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