本日は「賢い花嫁、愚かな花嫁」という題でメッセージしたいと思います。聖書に書いてある「賢い花嫁、愚かな花嫁」とは具体的にはどのような人々をさすのか、それを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ていきたいと思います。
”1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。”
ここで10人の娘が出てきます。娘は夫なるキリストに嫁ぐべき神の民をさします。この花婿は再臨するキリストをさします。ですから、ここでいわれていることは、終末の日のことです。そして、このことを言っています。すなわち、終末の日における2種類の神の民の運命について述べているのです。
ここでいわれている”ともしび”は黙示録の以下のことばと同じです。
”ヨハネの黙示録 4:5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。”
ここでは、ともしびは聖霊をさしています。ですから、ともしびが聖霊と関係があることがわかります。
十人の娘の”娘”ということばは以下の原語と同じです。
コリント人への手紙第二 11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
ですから、娘、処女とは神の民をさすことがわかります。
”2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。”
5人の花嫁は賢いため、婚礼の祝宴に入ることができました。しかし、愚かな花嫁は愚かであるために、婚礼の祝宴に入ることができませんでした。
この2者はとても対照的なのです。いつだか寝坊したために、自分が運転すべき電車の時間に間にあわなかった運転士のことを、ニュースできいたことがあります。電車の時間に間に合わない運転士は役に立ちません。彼はその時、きっと恥ずかしく残念に思ったことでしょう。
同じように、婚礼の祝宴に入れない花嫁ほど残念で、悔しいものはありません。この日のために、用意し、待っていたのに、肝心の婚礼の席に入れないのではとても残念です。
しかし、このことは確かに終末の日に文字通り、成就することがらなのです。これは、主に会う備えをしていたつもりなのに、その肝心な時に、その席に入れない神の民、クリスチャンに関する予表なのです。
さて、賢い、愚かということばを調べる時、人間的に考えるべきではありません。逆に聖書でいう、「賢い、愚か」とはどういう意味かを見ていくべきです。
この2つの原語が使われている他の聖書の箇所からこのことばの意味をみていきましょう。
1)”コリント人への手紙第一 1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。”
この箇所を順に見ていきましょう。
”25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。”
ここで、賢い、愚かという2つのことばが使われています。ですから、ここで、述べられていることはテキストのことばに関係することがらです。そして、”神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い”ということばから、人のいう賢い、愚かということばと神が使われるいいかたは異なることが示唆されています。それは、具体的にはどういうことでしょう。その説明が以下の節にあります。
”26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。”
集められた神の聖徒には、”知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはない”ことが書いてあります。彼等は人前では決して賢くは見えないのでしょう。しかし、このような人々が神にあって知者、すなわち、賢い者になるのです。これが神の方法です。このことは終末の日にも神の民の間で起こってくることと思われます。
”27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。”
終末の日とは知恵ある者がはずかしめられる日です。人の知恵により神のことばを曲げた彼等がさばかれる日です。そして、人間的には愚かな人々に正しい神の真理が開かれる日なのです。
”28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。”
”この世の取るに足りない者や見下されている者”たちにこの神の国の福音が伝えられ、長い間、神のみことばに接していながら、それを行わなかった人々が後に残される日が近づいています。兄エサウではなく、弟ヤコブを選んだ神は今、彼等を選ぼうとしています。
2)”1コリ4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。
9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。”
ここでも、神の前に2種類の人々が記されています。これらの節は期せずして、終末における2種類のクリスチャンに関する預言になっています。パウロがそれを意図して書いたかどうかはわかりません。しかし、聖書の真の著者である神はここで終末の時に関する預言を語りました。片方の民は主の教えに忠実であるために、患難時代に苦しみを受ける人々であり、他方の民は終末の時代に世で満ち足り、王となり栄誉をうける人々です。
この箇所も順に見ていきましょう。
”8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。”
ここでいう<豊か>ということばは以下の原語と同じです。
”黙3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”
彼等は自分では豊かといっても神の前に真に豊かとはいえません。
”私たち抜きで、王さまになっています。”
私たちとは真に神につくしもべのことです。このしもべたちが王になっていないのに、彼等は王になっています。彼等はこの世で王になっているのです。
”いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。”
”いっそのこと、ほんとうに王さまになっていたらよかったのです。”と書いてあります。彼等は真の意味では、また神の前では王ではありません。彼等はこの世の人の前ではキリスト教会の王ーすなわち、代表者、権力者のように見えるでしょう。しかし、神の前の評価は異なります。
”9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。”
行列は神の聖徒の行列です。この行列の始めの方には、アブラハムもダビデもいます。しかし、行列のしんがり、すなわち、もっとも最後の時代の聖徒は死罪に決まった者、すなわち殉教する人々が続きます。
”こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。”
殉教者達、油塗られた者達がこの世の見せ物になる日は近いのです。しかし、その時はまた、彼等がこの世に証する時でもあります。
”10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。”
終末の日には、キリストにあって賢い人々がいるのです。彼等はこの終末の世でも、うまく、かしこく、非難されずにやっていくことができるのです。彼等はこの世で、強く、権力まで与えられます。またこの世で栄誉も与えられるのです。キリストでさえ、この世では、悪霊つき、ベルゼブルと呼ばれたことを思い出して下さい。彼等はキリスト以上に賢い人々です。
しかし、他方、終末における主の真の弟子は”キリストのために愚かな者”であり、弱く、またこの世では”卑しめられて”いるのです。
”11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。”
主の真の弟子は患難の時代には”飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先も”ないでしょう。
”はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。”
主の弟子が”はずかしめられ、迫害され、ののしられる”時がきます。彼等は愚かにみえます。しかし、彼等こそキリストの賢い花嫁なのです。
”私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。”
主の弟子がこの世で忌み嫌われる時は確かにきます。しかし、このことは世の初めから語られていたことであることを忘れてはいけません。
さて、もとのテキストに戻ります。
”3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。”
この2種類の神の民の結末は決定的に異なるものです。それこそ、天国と地獄の差です。その差は何でしょう。どちらもともしびは持っていた、すなわち神の民であることはわかります。しかし、油を持っているかどうか、すなわち、聖霊を受けているかどうかが決定的な差となるのです。
”5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。”
”うとうとして眠”るとは、この世の罪、闇の中でクリスチャンが影響されることをさします。
”11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。”
この<私はあなたがたを知りません>という表現は以下のことばと似ています。
”ルカの福音書 13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。”
ですから、この愚かな花嫁たちも神の国の外に追い出されることがわかります。
”13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。”
その日、その時がわからないことが書いてあります。この時はたしかにわからないのです。しかし、これは私の個人的な考えですが、この賢い花嫁と愚かな花嫁の区分が今、もうすでに、行われつつあるのではないでしょうか。
今、多くのクリスチャンがカリスマ的な働きを非難しつつあります。彼等は特定のセクト、カルトを攻撃しているつもりでいます。しかし、実は聖霊そのものの働きを非難していることに気付かないのです。彼等は油をともしびにたくわえない、愚かな人々です。
終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
ー以上ー