通算No.131 子羊に関して

テキスト:”黙示5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」”

本日は「小羊に関して」という題でメッセージしたいと思います。

黙示録の中では、キリストをさす時、小羊という表現がよく用いられます。このことばはこの書の中で頻繁に用いられているのです。このことには何か意味があるのでしょうか。それを見ていきたいと思います。

聖書の中で、キリストをさす表現は色々あります。たとえば、「王の王」という表現は治める方という面をさす表現です。また、「アルプァでありオメガである方」とは、始めであり、終わりである、すなわち時間的に制限されない方であることをさす表現です。

さて、それでは「小羊」とはキリストのどのような面をさすのでしょうか。これは難しくない質問だと思います。テキストに”ほふられた小羊”と書いてあるように、小羊はほふられる動物です。すなわちキリストが人のために、また神のみこころのために自分の命を捨てたという面をさす名前なのです。

そして、この小羊という表現は黙示録の中でよく用いられます。例えば以下のような箇所です。

”黙7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」”

これらの節の中では合計4回も小羊ということばが使われているのです。ですから、このことばがこの箇所では重要な意味のあることばであることがわかります。何を意味しているのでしょう。

私はこう思います。神はここで小羊ということばを使うことにより、この白い衣を着た大群衆がどのような種類の人々かを暗示しようとしておられるのではないでしょうか。

例として、こんなことがいえると思います。学校の先生の前に集まる人々はどのような人々でしょう。それは生徒ではないでしょうか。また、会社の社長の前に集まる人々は誰でしょう。会社員ではないでしょうか。

同じようにここで”白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ってい”る人々は小羊の前に出ています。神の御座の前に出る彼等はすでに死んだ人々だということがわかります。彼等はどのようにして死んだのでしょうか。

小羊ということばが彼等の死に方を暗示しています。小羊なるキリストは神のみこころのために、自分の命を捧げて死にました。いわば、殉教の死をとげたのです。そして、ここに集まっている大群衆も恐らく終末の大患難の中で命を失う殉教者達なのです。

しかし、このことは隠れたことなのです。そして、そのヒントがここで何度も使われている小羊ということばなのです。ですから、子羊ということばはおそらく神のみこころのために自分の命をささげる、すなわち殉教をあらわすキーワードではないかと思えます。

さて、小羊ということばが使われている聖書の他の箇所を見ていきたいと思います。

”ルカの福音書 10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。”

これは弟子をつかわす時に主が彼等に与えたことばです。主はその中で子羊ということばを通して、殉教の覚悟についても語っていると思われます。

ヨハネの福音書 21:15 彼らが食事を済ませたときイエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」”

3度主を否んだペテロに対して、主は3度”これらのものにまさって主を愛する”ことをきいています。ですから、終末の殉教の時に、主を否定しないものは”これらのもの”にまさって主を愛する弟子だということがわかります。

そして、それとともに主は「わたしの小羊を飼いなさい。」とペテロに命じています。これは、基本的には牧会についてのことばです。しかし、ここで主は子羊ということばを通して終末の私たちに対して、もう一つ深い内容について語っています。それは殉教のことです。終末の日に主に命をささげる人々を牧することについて語っているのです。

”ヨハネの黙示録 5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」”

イエスキリストは神の真の祭司であり、神の使徒であり、預言者であり、王です。しかし、ここではこれらの名称については述べず、”ほふられた小羊”が”力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方”であると述べられています。すなわち、神のみこころのために命をささげたものが受ける誉れについて述べられているのです。

主は我ら兄弟の長子でもあります。ですから、私たちが主と同じ道を歩む時、同じく誉れが与えられることが暗示されます。

ヨハネの黙示録 5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
ヨハネの黙示録 5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
ヨハネの黙示録 6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。”

巻物をひらくのは子羊であり、7つの封印は子羊により開かれていきます。終末の時代、黙示録の時代はどのように開かれていくのでしょうか。それは、聖徒達の殉教を原因として開かれていくのです。子羊ということばは、このことを暗示することばです。

”ヨハネの黙示録 12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。”

ここに書かれている兄弟達は、女から生れ、天に引き上げられる男の子のことです。彼等は勝利者です。そして、彼等は殉教者です。ここでは、”イエスの血”もしくは”キリストの血”という表現を用いず、逆に”子羊の血”と記されています。このように表現することにより殉教が暗示されているのです。

ヨハネの黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。”

ここでは、子羊ということばが4回使われています。このことばにより、この14万4千人の人々が殉教者であることが暗示されます。

”ヨハネの黙示録 14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。”

彼等は女ー淫婦バビロンにより汚されたことのない人々です。彼等は”小羊が行く所には、どこにでもついて行”きます。すなわち、殉教をいとわないということです。また”神および小羊にささげられる初穂”ということばも殉教を暗示することばです。

”ヨハネの黙示録 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。”

何故彼等は裁かれるのでしょう。それは、子羊ーすなわち、主の命をかけたあがないを裏切り、契約を捨てるからです。

”ヨハネの黙示録 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。

ヨハネの黙示録 21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」”

子羊の婚姻、子羊の花嫁ということばを使うことにより、ここに招かれる人々の種類が暗示されます。それは、殉教者および、最後まで患難時代を耐え忍んだ人々です。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

 戻る