通算No.129 取税人や遊女

テキスト:マタイ21:28ー46
”マタイ21;28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。
33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
40 このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
46 それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。”

本日は「取税人や遊女」という題でメッセージしたいと思います。聖書には、神の国が「取税人や遊女」に及ぶことが書いてあります。そのことについて学びたいと思います。
ここで2つのたとえがあります。「兄と弟のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ」です。それぞれ、テキストから順に見ていきます。

”ある人にふたりの息子がいた。”

ここで2人の息子について述べています。父は神であり、その神には2種類の神の民がいたというのです。兄は”祭司長たちとパリサイ人たち”をさし、弟は”取税人や遊女たち”をさします。

さて、イエスの時代におきた多くのことは終末の時代の型です。終末にも2種類の神の民がいます。”祭司長たちとパリサイ人たち”に相当する人々がおり、また”取税人や遊女たち”に相当する人々がいます。前者はキリスト教会の専門的な人々であり、後者は今まで神を信じることも知らなかった、かつては罪深い生活を送っていた人々でしょう。

”その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。”

兄の問題は何でしょう。彼は弟よりは長い間、父と暮らしており、父のことはよく知っているのです。しかし、問題は彼が父のことばを行わなかったことです。

今の教会の問題もまさにここにあるのです。正しいことをいい、正しく返事をするが、しかし、父のことばを行わないのです。

”30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。”

父は弟のところへ行きました。弟は父のことばを実行したのです。行うことは尊いのです。

”31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」”

父なる神には計画があり、仕事があり、これは誰かによってなされねばならないことなのです。そして、それは”あとの者”すなわち弟を通してなされたのです。後のものが先になるのです。

”イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。”

取税人や遊女たちのほうが祭司長たちやパリサイ人たちよりも先に神の国に入ります。このことは終末にも起きます。伝統的な専門的なキリスト教徒が後に残される日がくるでしょう。

”32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。”

バプテスマのヨハネは終末のリバイバリストの予表です。バプテスマのヨハネは多くの人に悔い改めのバプテスマを授けました。同じように、多くの人がこの終末のリバイバルを通して神に立ち返るでしょう。また、聖霊のバプテスマを受けるでしょう。しかし、祭司長たちとパリサイ人たちは”彼を信じなかったのです。”同じように。伝統的な人々は、終末のリバイバルの器達を信じず、また排斥するのでしょう。彼等のメッセージを聞いて悔い改めることもしないのです。

”もう一つのたとえを聞きなさい。”

もう一つということばに注目して下さい。このたとえは前のたとえと関連しています。補足、説明しているのです。

”ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。”

ここでも前のたとえと同じようにぶどう園のことが書かれています。これらのたとえは関連しているのです。
このぶどう園は終末においては、教会です。農夫は教会のクリスチャンのことです。”旅に出かけた”と書いてあります。ぶどう園の主であるキリストが再臨するまでのことをさします。

”34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。”
 

収穫の時とはいつのことでしょう。これは終末の大収穫の時をさします。神は収穫の備えをし、収穫の働きをなすように、神のしもべを通して、農夫達に語ったのです。

”35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。”

教会の歴史はイスラエルの歴史と同じです。それは、聞きしたがわない民に神がそのしもべを忍耐をもって送り続けた歴史です。

”37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。”

最後に神はその息子を農夫達に送りました。しかし、彼等はその子さえも殺してしまったのです。この子とは、基本的にはイエスキリストのことをさします。彼はユダヤ人達に排斥され、エルサレムの外で苦しみを受けました。ぶどう園の外に追い出され、殺されたのです。

さて、この預言もまた終末においても成就する2重の預言です。主イエスは旧約の歴史の後に絶たれる油注がれた者です。それとともに彼は教会時代の後に絶たれる油注がれた者の型なのです。

ですから、教会時代の終りにも主イエスと同じようにぶどう園の外に追い出され、殺される”神の子”達がいます。それは黙示録の中で女から生まれる”男の子”として表現される人々です。彼等は神の前に油注がれた者達であり、終末の日の殉教者達です。彼等は”諸国の民を牧する者”であり、あとつぎなのです。

”40 このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」”

ぶどう園の主人が却ってくる時とは、主イエスが再臨する日のことです。”その農夫たちをどうするでしょう。”との質問は”その教会の人々を再臨の主がどう扱うか”という質問です。

”41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」”

”その悪党どもを情け容赦なく殺”すということは文字通り終末の日に成就します。これは教会のさばきの日です。
”そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」”と書いてあります。すなわち、教会そしてその祝福の約束は今までのクリスチャンから他の農夫へと移されてしまうのです。
”取税人や遊女たち”すなわち、今まで全く神を知らなかった人々にその祝福を奪われてしまうのです。

”42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』”

”家を建てる者たち”とは神の家の中心的な人々です。ここでは、祭司長たちとパリサイ人たちをさします。見捨てられた石とはここではイエスキリストをさします。

さて、これはまた終末におきることの予表なのです。終末にも”『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石に”なるのです。ゼカリヤ書に以下のように書かれています。

”ゼカリヤ4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。
7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」”

7節に”かしら石を運び出そう”と書いてあります。終末の日にもかしら石と呼ばれる人々がいるのです。彼等は主イエスと同じように”家を絶てる者たち”には見捨てられたものです。そして、彼等は2本のオリーブの木です。彼等は黙示録の中で、2人の預言者として、象徴的に示されている人々です。彼等こそ、終末の日の油注がれた者たちです。

さらにテキストを見ていきます。

”43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。”

神の国が祭司長たちとパリサイ人から取り去られることが書いてあります。これは、終末の教会におきます。ですから、この終末の時のかしら石の多くは取税人や遊女、すなわち今の未信者の中から出てくることが予想されます。

”44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」”

この石とはかしら石のことです。主イエスを迫害した人は”粉々に砕かれ”てしまいました。同じことが終末のかしら石を迫害する人々の上におきます。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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