通算No.121 主の弟子と患難時代

テキスト:”マタイ16: 21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老
、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならな
いことを弟子たちに示し始められた。
22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。
そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をす
るものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を
捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすので
す。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」”

本日は「主の弟子と患難時代」という題でメッセージします。主の弟子は患難時代を通過するのか、
しないのかということをみ言葉から見ていきたいと思うのです。
 

テキストはマタイ16章です。ここに主の弟子達の患難時代における歩みについて記されています。
順に見ていきたいと思います。
 

”21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たち
から多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し
始められた。”
 

ここで、主はご自分のエルサレムにおいて長老、祭司長、律法学者たちから受ける苦しみと十字架の死について語られました。

”22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。
そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言わ
れた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人の
ことを思っている。」”

それを聞いたペテロは、そのようなことが起こるはずがないとイエスの考えをいさめ、注意し、とどめ
たのです。彼の考えは全ての弟子にも、またイエス自身にとっても良いことのように聞こえます。八方
まるくおさまりそうです。しかし、主はそれをとがめました。この考えは人間的なものであり、神のみ
こころではないのです。

”24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”

今までは主の十字架の話でした。しかし、この後、対象が変わります。”それから、イエスは弟子たち
に言われた。”と書いてあるからです。そして、主は弟子についても十字架について語っています。
彼等に対して”自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”といわれているのです。
 

主はたしかに弟子の十字架を負う歩みについてここで語っています。さて、これらの言葉は直接は、
当時の12弟子にあてて語られたものです。しかし、それと共に別の時代の弟子を念頭において語ら
れたものなのです。それはどの時代なのでしょう。考えて見ましょう。以下のことばを見て下さい。
 

”27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時に
は、おのおのその行ないに応じて報いをします。”
 

人の子であるイエスが”栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来”るのは、再臨の時です。
ですから、これらのことばは主の再臨の前、患難時代を経過する弟子達を考慮して語られたことばなの
です。

”28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来る
のを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」”
 

また、ここで、”人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々”について書
いてあります。これは、どういう人々でしょう。私は要するに生き残って再臨を迎える人々ではないか
と思っています。何故なら、他ではこのように書かれています。
 

”テサロニケ人への手紙第一 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中
に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにい
ることになります。”

ここでも生き残って主に出会う弟子のことが書かれています。彼等は患難時代を生き残る人々で
す。ですから、テキストのことばは、主の再臨に会う、患難時代を経過する弟子達にあてて書かれたも
のなのです。

”25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすの
です。”

終末の患難時代の前に主の弟子は天にあげられ、全く患難にあわなくなるわけではありません。逆に主
のために命を失うものもでるはずです。このことばは患難時代を経過する弟子について書かれたものな
のです。

”26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。その
いのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

何故、このようなことばが書かれているのでしょう。それは、終末には、まことのいのちをえ得させまい
とする働きがあるからです。すなわち、自分の肉体の命を惜しんで、永遠の命を逃す人々です。
 

さて、繰り返すようですが、ここでの話の流れを振り返ってまとめてみます。以下のように対照的になっています。

(主の歩み)
1a.主はご自分のエルサレムにおいておける苦難、十字架の死について語る。

1b.ペテロはそのようなこと(十字架を負うこと)は主の身にはおきないといさめる。

1c.主はペテロのそのような考えは人間的であり、サタンから来たものだと非難する。
 

(弟子の歩み)

2a.主はまた終末に関連して、弟子達にキリストに従い、自分の十字架を負ってくるよう言われる。
また、”いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすの
です。”といわれる。

2b.それに対して弟子はみな患難時代の前には挙げられるという考えがある。これは、すなわち、
この時には、苦難も殉教も主の弟子達にはおきないという考えである。弟子は十字架を負わないという考えである。

2c.しかし、このような考えは、本当に神からきた考えなのでしょうか。それともサタンからきたものなのでしょ うか。

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終末のことばは、とてもわかりずらいように見えます。しかし、実は神は聖書の中のあそこ
で、またここでと必要なことを私たちに語っているのです。私たちが真の意味で弟子としてみことばを
行うつもりがあるなら、これらのことばは開けてくるのです。
 

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
 
 

ー以上ー

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