”1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう
必要がありません。
2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかりま
す。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたが
たを襲うことはありません。
5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、
慎み深くしていましょう。
9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを
得るようにお定めになったからです。”
本日は「平和な患難時代」という題でメッセージしたいと思います。聖書には終末の時に関して、多く
の記事があります。それらの記事の中で一つわからないことがあります。
それは、主の日が来る前に人々が「平和だ。安全だ。」といっているということです。終末の時代には
多くの災害、問題が多発すると思えるのですが、何故彼等は「平和だ。安全だ。」というのでしょう
か。そのことについて見ていきたいと思います。このことに書いてある1テサ5章の記事を順に見てい
きたいと思います。
”3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかり
ます。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。”
ここで対象になっている人々がどのような”人々”なのか、知ることが大事です。彼等は裁かれるべき
神の民なのです。彼等には患難時代の終りに裁きが臨みます。しかし、それまでは彼等は「平和、安全」
なのです。
ですから、このことを知らなければなりません。患難時代とは主の弟子、みこころを行う弟子にとっ
ては、苦難、患難の時です。しかし、そうでない、この世についた神の民にとっては、必ずしも患難の
時ではないということです。もちろん、彼等も最後には、裁かれるのですが、それまでは、彼等にと
って、平和で安全な時代が続くのです。
このことを思い出して下さい。主がマタイ、マルコ、ルカの福音書で、終末の患難について語った時
、
弟子達を対象にそれらのことを語ったことを。患難時代は弟子たちにとってこそ患難の時代なのです。
また、黙示録にもこう書かれています。
”ヨハネの黙示録 1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある
苦 難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモス
と いう島にいた”
黙示録も”あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている”ヨハネ
か ら、 主の弟子にあてて書かれているのです。そうでない人は苦難を受けるとは限らないのです。
”9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救
い を得るようにお定めになったからです。”
この滅ぼされる人達は神の怒りにあう人々だということがわかります。
さて、この滅ばされる神の民とは別に、主のみこころを行う神の民についてもこの書に書かれています。
それは、テキストの1つ前の章に記されています。
”1テサ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたく
あ りません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、
イエ スにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私た
ち が、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来ら
れ ます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえ
り、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げら
れ、 空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。”
ここでは主の弟子達の患難時代における状態について書いてあります。順に見ていきます。
”13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。”
眠った人々とは患難時代に命を落とす殉教者のことでしょう。彼等については悲しむ必要はないと述べ
ています。
”14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、
イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。”
これらの殉教者は主とともに蘇り、再臨します。
”15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私
た ちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。”
さて、ここでもう1種類の弟子がいます。それは、患難時代を生き残る弟子達です。彼等は順番と
し ては、殉教者の次です。
”18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。”
何故、慰めあわなければならないのでしょうか。それはこれらのことばが患難時代に臨む主の弟子に
あ てられたものだからです。
ですから、繰り返すようですが、患難時代は神の真のしもべにとって苦難、患難の時代なので
す。 そして、そうでない神の民、この世につく神の民にとっては、必ずしも苦難の時ではありませ
ん。 むしろ平和な時なのでしょう。この事実は以下のルカ伝の記事にも現われています。
”ルカ21:16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。
中には殺 される者もあり、
17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありませ
ん。
19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟り
な
さい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。
いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御
怒 りが臨むからです。”
この箇所も順に見ていきます。
”16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者
も あり、
17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。”
この患難時代は、油注がれた者たちにとっては、患難の時です。しかし、世についた正統的なクリス
チ ャンにとっては、あやしげなカルトが処分されている時に過ぎないかもしれません。主イエスの時
が実 にそうだったのです。イエスとその弟子はあやしげな異端として神の民により、攻撃、非難、迫害され
たのです。弟子達は迫害され、身の危険を絶えず感じていましたが、パリサイ人、律法学者達は別に
自 分の身の危険を感じてはいませんでした。終末にも同じことがおきるでしょう。
”20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを
悟 りなさい。”
しかし、患難時代の終わりにエルサレム、この世についた教会が軍隊に囲まれる日がきます。これ
は、 裁きの時です。
”21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさ
い。 いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。”
これは、報復の日、殉教者の血に対する報復の日です。
”23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に
御 怒りが臨むからです。”
その時、今まで平和、無事だった裁かれるべき、神の民に”御怒りが臨む”のです。
終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
ー以上ー