通算No.115 剣をもたらす

テキスト: マタイ11:16ー42
”16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですか
ら、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。

18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと
異邦人たちにあかしをするためです。
19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びませ
ん。話すべきことは、そのとき示されるからです。
20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御

霊だからです。
21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者
は救われます。
23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあ
なたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽く
せないからです。
24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長
をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されてい
るもので知られずに済むものはありません。
27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くこ
とを屋上で言い広めなさい。

28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たまし
いもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお
許しなしには地に落ちることはありません。
30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認
めます。
33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、
そんな者は知らないと言います。
34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすため
に来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たから
です。
36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子

や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 

39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それ

を自分のものとします。
40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたし
を遣わした方を受け入れるのです。
41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だ
ということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、
あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」”
 

本日は”剣をもたらす”という題でメッセージします。このマタイ伝の箇所はイエスがその弟子達を遣わ
すときのことばを述べたものです。

これらのことばはまた、終末における弟子のありさまを述べる預言になっています。ですから、我々は逆
にこれらのことばから、終末の日に12弟子の(霊的な)子孫である主の弟子におこることを知ることが
できます。

主はガリラヤ湖で復活の後、ペテロやヨハネと語った時、彼等の最後について語りました。これは、
ペテロやヨハネ個人の将来への預言であるとともに、また、ペテロやヨハネで代表される弟子達の終末の
時のありさまに関する預言でもありました。同じことがこのマタイ伝の箇所にもいえるのです。

これらのことばはイエスの時の12弟子に関するものですが、それとともに終末における弟子達への預言
にもなっているのです。

それでは、この箇所から、順に終末における弟子達の歩みについて見ていきましょう。
 

”17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。

18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、
彼らと異邦人たちにあかしをするためです。”

真の弟子が議会に引き渡される日がきます。今、EUの各国で法律化されつつある、カルト規制法案が成
立化してくるなら、またこの国が全世界を支配するのなら、主の”油注がれた者たち”が裁判の場に
連れてこられる日は遠くありません。また、”会堂でむち打”たれると書いてあります。キリストの
教会の会堂の中でカリスマ的な人々、聖霊を崇める人々が迫害される日も遠い日ではありません。
 

21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを
死なせます。”

教会は家に例えられます。だから、ここでいわれる兄弟、父子はクリスチャンの兄弟、父子関係を
さすたとえです。終末は一つの家の中で、すなわち教会の中でクリスチャンどうしが相争う時です。
このことは以下のルカ伝の記述にも示されています。

”ルカ12;49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、
どんなに願っていることでしょう。
50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむ
ことでしょう。
51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。
あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。

53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめ
に対抗して分かれるようになります。」”

火、すなわち聖霊の火が投げ込まれたために、一家、すなわち一つの教会内に分裂がおきます。
これは今は小さな形でおきていますが、全世界を巻き込むような大規模なものになっていくの
ではないかと思われます。

”22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで
耐え忍ぶ者は救われます。”

カルト、異端だということで、主の弟子達が全ての人々から憎まれる日がきます。しかし、この時、
そうでないクリスチャンは必ずしも迫害されるとは限りません。逆に彼等を非難する立場になる
でしょう。しかし、この時は”賢い花嫁と愚かな花嫁”の区別される時でもあります。

”23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなこと
をあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を
巡り尽くせないからです。”

町も教会をたとえることばです。もし主の弟子が一つの教会でカリスマ的な信仰だとか、異言をいうな
とか、迫害されたなら、他の教会へのがれろということだと思われます。

”24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは
家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。”

カリスマ的であったり、聖霊のたまもの、はたらきのゆえに迫害される時、”うまくたちまわろう”と
思う人もいるかもしれません。しかし、主イエスでさえ、ベルゼブルと呼ばれたことを思いおこす
べきです。弟子が主イエス以上に賢くたちまわれるということはありえません。

主イエスは悪霊を追い出した時、ベルゼブルによって追い出しているといわれました。同じように、
終末には、弟子たちの悪霊追い出しやたまものの行使はカルトだベルゼブルだといわれることでしょう。しかし、このことを気にしたりする必要はありません。なぜなら、主は”弟子がその師のように
なれたら十分だ”といわれるからです。

”26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはありません。
27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで
聞くことを屋上で言い広めなさい。
28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、
たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの
父のお許しなしには地に落ちることはありません。
30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前で
その人を認めます。
33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの
父の前で、そんな者は知らないと言います。”

”恐れるな”ということばが何度も出てきます。終末には、”からだを殺しても、たましいを
殺せない人たちなどを恐れては”ならないのです。

”34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和を
もたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。”

平和ではなく、剣をもたらすために来たと主はいわれます。ですから、終末の日には、聖霊を
境にして、キリスト教会は2つに分かれます。そして、この分裂は剣、すなわち他方の死をも
もたらすものとなります。他方は訴えられ、殉教の死をもたらすのです。

”35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために
来たからです。
36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも
息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。”

牧師から信徒一人一人に至るまで、聖霊に全く従うぞと心を決めている教会なら分裂はないかもしれ
ませんが、そうでもない教会では深刻な選択をせねばならなくなるでしょう。自分を救いに導いて
くれた父のような先生が、異言や預言は異端だという、しかし主イエスはたまものについて確かに
語っているように思える。自分はどちらを選ぶべきかと迷うわけです。しかし、主は” わたしよりも
父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。”といわれています。主の声を選び
ましょう。

”38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、
それを自分のものとします。”

人からの賞賛、自分のいのちを考慮したら主に従えない時代がきます。

”40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、
わたしを遣わした方を受け入れるのです。”

聖霊に従う弟子は終末の時代にはカルト、異端、悪霊つきと呼ばれるかもしれませんが、しかし、
そのような中でもその弟子を受け入れる人々、神の民は実はキリストを受けいれることになるのです。

”41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を
義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。”

主の弟子達の声はカルトだということで、耳を傾ける人々はクリスチャンの間でも少ないかもしれ
ません。しかし、
”預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。”

”42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、
まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」”

の弟子、油そそがれた者たちは、カルト、異端だということで、多くの迫害を受けるでしょう。
逆に主の弟子でもない、油もそそがれていないクリスチャンは必ずしもこの時に、迫害を受けるとは
限りません。しかし、彼等は淫婦としてのさばきを後に受けます。

終末における主のみこころを行っていきましょう。
 
 

ー以上ー

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