通算NO.110 火を投じるために

テキスト: ルカ12:49ー53
”49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
51あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
52今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
53父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」”

本日は”火を投じるために”という題でメッセージをします。ルカ12章には、主が火を投げ込むために来られたことが書いてあります。これらのことばはイエスの時に関することであるとともに、また終末のリバイバルの時に関する預言でもあります。このことを学んでいきたいと思います。

テキストに沿って見ていきたいと思います。

”49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。”

主はご自分が来られたのは、地に火を投げ込むためだと言われました。この火はペンテコステにおいて投げ込まれた聖霊の火のことです。ペンテコステの記述には、”その時、火のような舌がとどまった”と書いてあるからです。
さて、このことは主イエスの時に実現した歴史的な事実ですが、しかしまた、終末における大リバイバルの時への預言でもあります。

何故なら、ペンテコステの時に火が下ったように、終末のリバイバルも天から下る火によりもたらされるからです。終末における火を下すために働く人々は、黙示録11章で、天から火を下す2人の預言者であり、これは終末における真の神の働き人の予表です。

”50しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。”

バプテスマとは、葬りという意味です。ですから、ここで主がいわれる”受けるバプテスマ”とは、主の十字架の死と葬りをさすことがわかります。このために、主はゲッセマネの園で苦祷し、また十字架で苦しまれたのです。

さて、主の死、殉教は”前の雨”ーペンテコステの時代におきたことです。しかし、これはまた”後の雨”ー終末の大収穫の時代に起きることの予表でもあるのです。

すなわち、この時にもやはり殉教が起きるのです。ペンテコステの時代に”油注がれた者”である主イエスは絶たれました。終末の時代にも油注がれた者達は絶たれます。黙11章に記されている2人の油注がれた預言者が絶たれることは、まさにそのことをさします。

”51あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。”

終末に待望の聖霊の火が下るなら全ての神の民は喜び、平和に満ちそうなものですが、主はそうではないといわれます。逆に分裂がおきるといわれるのです。これは、ペンテコステの時、成就しました。主の弟子は聖霊と力と平和に満たされましたが、祭司長、律法学者、パリサイ人達は激怒しました。そして、ペテロ、ヨハネを捕え、ステパノを殺したのです。ステパノとは、冠という意味であり、これは勝利者の受ける冠を意味すると思われます。

このことは、終末におきることの予表です。終末にも神の民は聖霊を境として、2分されます。すなわち、主の弟子として、聖霊に従う道をとる人々と祭司長、律法学者、パリサイ人達につく人々ーそれは聖霊に逆らう道ですーとに分かれるのです。

”52今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。”

一家と書いてあります。家は教会の予表です。ですから、教会の中が分裂し、分かれ争うということをたとえで書いているのです。これらのことは、小規模的には今も起きています。今のキリスト教の世界にも小さい形で、分裂が起きています。しかし、これは、後に大きく全世界的な規模で起きるようになります。

”53父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」”

”父は息子に、息子は父に対抗し”と記されています。他の箇所では父は子を死に渡す、また兄弟は兄弟を死に渡すと書いてあります。

ですから、この分裂は一方が他方を死に渡すまでのものとなるでしょう。それは、またエドムがその兄弟ヤコブを死に渡す日でもあります。これは、私の個人的な意見ですが、今EUで可決されつつあるカルト規制法案はその動きの一つではないかと思っています。聖霊の働きはとどめられつつあります。

終末においては、聖霊の声に従うのか否かがそのクリスチャンの永遠の運命を定めることがわかります。

終末における主のみこころを行っていきましょう。
 

ー以上ー

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