通算No.108 黙示録の7の数字

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”ヨハネの黙示録 1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、”

本日は”黙示録の7の数字”という題でメッセージしたいと思います。黙示録に使われている7の数字について考えてみたいと思うのです。

聖書には多くの数字が使われています。そして、それらの数字が使われていることには意味があります。

たとえば、3年半という期間が何度か聖書の中で使用されています。患難時代の期間におきることを伝えるために、聖書のあちこちでこの数字が使われています。
いいかたも、3年半、1260日、42か月、一時と2時と半時というように色々あります。また、これらの数字が記されている聖書箇所もあちこちです。ダニエル書だったり、黙示録だったりします。しかし、そうではあっても3年半という数字、もしくはそれに相当する数字(1260日等)により、それらの記事に共通性があることを私たちは知ることができます。これらの数字が使われている箇所は患難時代について記してあるのです。そして、この数字はこれらの記事の共通性を示すキーワードなのです。神はそのように意図してこの数字を使いました。それでこれらの数字の箇所を見ていく時、我々は患難時代のことについて、少しづつ知ることができるのです。

この原則は他の数字にも現われています。例えば、ペテロに向かってイエスは鶏が鳴く前に3度主を否定するといわれました。ここでは、”3”という数字が使われているのです。この数字は他にもこの出来事の前後に何度か使われています。

すなわち、ゲッセマネの園でペテロを含む弟子たちは3度寝ていました。イエスが3度来たとき、3度とも寝ていたのです。主は「ひとときでも私とともに、目をさましていることができなかったのか」といわれましたが、彼等は眠気に勝てず、夜の闇の中で眠りこけてしまったのです。夜の闇は、罪の時代を象徴するものであり、そこで眠りこけている弟子は終末の日に、罪の中で、霊的に眠りこけていく人々を象徴的に表わすものです。3という数字を使用することにより、闇の中で眠っていることは、いざという時に主を否定することと関係があるということを聖書は語っています。

すなわち、終末の患難時代に主を否定する弟子は誰か、それは罪の時代に巻き込まれてしまい、その中で祈りを止めてしまい、霊的に眠ってしまう弟子であることをこの3という数字の共通性を通して神は語られているのです。

さらに復活の後、主はペテロに現われ、3度”これらのものにまさって私を愛するか”と言われました。ここにも3という数字が使われているので、これらには共通性があることがわかります。3度主を否定したペテロに3度”これらのものにまさって私を愛するか”と主は言われたのです。何故でしょう。私はこう思います。終末の患難時代は私たちが本当は何を愛しているのかを試す時なのでしょう。その時、”これらのものにまさって”主を愛した者こそ、その時、主を否定しない者である、そのことを語っているように思えます。神は3という言葉の共通性を通してそのことを我々に語っているように思えるのです。

さて、黙示録を見ていきたいと思います。黙示録には色々な数字が使われています。しかし、その中でも最も多く使われている数字は7という数字でしょう。この数字について見ていきたいと思います。

この7は裁きについて使われています。以下のようです。

ヨハネの黙示録 6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。

ヨハネの黙示録8:2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。

ヨハネの黙示録 10:4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。

ヨハネの黙示録 11:13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。

ヨハネの黙示録 15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。

ヨハネの黙示録 16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」

ヨハネの黙示録 17:9 ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。”

ここで、黙示録の時代に起きる災い、災害には、ことごとく”7”の数字が使われていることがわかります。すなわち、7つの封印、7人のみ使い、7つのラッパ、7つの雷、7つの災害、7つの鉢、7つの頭、7つの山、7人の王等です。また、地震で倒れた7000人という数字も7に関係があります。

これらは偶然ではありません。このように7という数字を使うことにより神が語っていることがあるのです。

さて、黙示録を読む時、多くの意味のわからないこと、理解できないことが含まれています。何度読んでもわからないことが多いのです。その中でも特にわからないのは、神が何を裁こうとしているのか、その対象が何なのかということです。例えば、黙示録には淫婦バビロンが出てきます。彼女は神に憎まれ、裁かれることが書いてあります。このバビロンが何をさすのか、よくわからないのです。ある人はこれはこの世をさすのだといい、他の人はこれはローマカソリックのことだといい、他の人はこれは終末の宗教団体だといいます。しかし、よくわからないのです。

しかし、この7という数字はこれらを解明するのに一つのヒントを与えます。というのは、この7という数字は他の黙示録の箇所でも使われているからです。以下を見て下さい。

”ヨハネの黙示録 1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

ヨハネの黙示録 1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

ヨハネの黙示録 1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

ハネの黙示録 3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

ヨハネの黙示録 4:5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。

ヨハネの黙示録 5:6 さらに私は、御座「「そこには、四つの生き物がいる。「「と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。”

ここでも”7”に関係した表現がいくつも現われています。すなわち、7つの金の燭台、7つの星、7つの教会のみ使いたち、7つの教会、神の7つの御霊、7つのともしび、7つの角と7つの目。
そして、これらに共通することがあります。すなわち、これらの”7”の数字は皆、教会と関係した数なのです。

ですから、ここに7の数字に関してヒントがあることに気がつかなければなりません。すなわち、教会に関することばにはことさらのように”7”の数字が使われていることに気がつかなければならないのです。

黙示録を書かれた神はエペソ、スミルナというように教会を預言した時、7つの教会について預言しました。10でも12でもなく7つの教会について預言したのです。また、神は7つの金の燭台、7つの星、すなわち7人のみ使い、7つのともしび、また、神の7つのみ霊とも書いたのです。教会に関連することばに何度も”7”という数字を使われたのです。

ですから、私たちは気がつかなければなりません。黙示録における裁きは主に教会についての裁きなのです。黙示録の時代に教会を裁くと神は語られているのです。これは長い間、封印されていたことなのでしょうが、しかし、今の終末の時代には開かなければなりません。

もし、黙示録の中で、6つの封印、6つのラッパ、6つの鉢について書かれているなら、その時代の裁きは主に”獣”に対してなされるものかもしれません。また、その裁きの焦点、第一目的は獣かもしれません。何故なら、獣の数は”666”だからです。しかし、黙示録は、7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢について書きました。それでこれは、教会の裁きに強調点があることを知るのです。

黙示録には教会の裁きを暗示する記述が多くあります。たとえば、いちじく、ぶどうという神の民を暗示する木への裁きが記されていることも一例です。ぶどうは”私はぶどうの木、あなたがたはその枝です。”といわれたようにクリスチャンをもさします。以下を見て下さい。

”ヨハネの黙示録 6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

ヨハネの黙示録14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。”

教会へのさばきが黙示録に記されているということは、大変びっくりすることですが、イザヤは、これらに関して以下のように預言しています。

”イザヤ29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
10 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。
13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」”

このことばをみていきます。

”10 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。”

民の目である預言者、すなわち教師達の目が閉じる時がくるといわれるのです。また、頭である先見者、すなわち指導者がおおわれ、見えなくなる時がくると主は言われるのです。それは終末の時です。

”11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。”

ここで、書物が読めないことについて語られています。我々クリスチャンにとっての書物とは聖書のことと思われます。それが、封じられ、読み書きできないといわれています。今の時代においては、終末の預言がまさにこのように読み書きできない状態です。

”14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」”

”知恵ある者の知恵””悟りある者の悟り”は人間的な知恵、悟りのことです。これら人の知恵を用いて終末の預言を解く人々の”知恵は滅び、悟りは隠される”と主はいわれます。主は末の日に”不思議なこと、驚き怪しむべきこと”をなされるといわれるのです。

終末における主のみこころをなしていきましょう。

ー以上ー

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