通算NO.106 携挙について

テキスト:1テサロニケ4章13ー18
”13眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。”

本日は”携挙について”という題でメッセージをしたいと思います。
いったい携挙はいつあるのでしょうか。ある人は患難前だといい、他の人は患難中、別の人は患難後といいます。色々な人が色々なことを言い、それぞれ理屈があうようでもあるし、聞けば聞くほど、よくわからないのです。

このことについて上記テキストのみことばからみていきたいと思います。順に見ていきます。

”眠った人々のこと”

パウロは主の再臨について記す時、まず”眠った人々”について書きました。だから、この人達については何か意味があります。

”14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。”

”そのように”ということばの意味を考えてみましょう。ここで、”眠った人々”がイエスになぞらえられているのです。イエスの生涯を思い起こして下さい。それは、簡単にいえば以下の3つに分けられます。
1) 神を証する生涯
2) 神のことばのゆえ殉教する
3) 神の力のゆえ復活する

すなわちイエスの歩みは殉教者の歩みなのです。それで、イエスといっしょに来る人々はこのイエスと同じような歩みをした人々である可能性があります。すなわち、彼等はおそらく殉教者なのです。

これらの人々が殉教者であるとする理由はもう一つあります。それは、聖書に第一の復活にあづかる者は殉教者であると記してあるからです。以下のことばを見て下さい。

ヨハネの黙示録 20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
5 その他の死者は千年の終わるまで蘇らなかった。これが第一の復活である。”

この黙示録の箇所には第一の復活にあずかる2種類の人々が書いてあります。

1) イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち、すなわち殉教者です。
2) 獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち。すなわち、”主が再び来られるときまで生き残っている”人達です。

そして、”その他の死者は千年の終わるまで蘇らなかった”ことが書いてあります。

だから、初めに蘇るキリストにある死者とは殉教者のことをいっているのです。殉教者が第一の復活にあずかるのです。

”首をはねられ”ということばはバプテスマのヨハネに通じます。彼は預言者として、語るべきことを語り、その結果、神の民の王に首をはねられて死にました。同じように終末にも首をはねられ、殉教する人々がいます。彼等はバプテスマのヨハネにより予表される黙示録11章の終末の預言者であり、油注がれた者達です。

”15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。”

ここで”生き残る”人達について書いてあります。すなわち”生きて””残る”人達について書いてあるのです。この”生き残る”ということばを考えて下さい。このことばは普通どんなふうに使われるでしょう。“硫黄島の戦いで生き残った””アウシユビッツで生き残った”。すなわち、このことばは他の人々が死んだことを暗示することばなのです。ですから、このことばは、他の人々が死ぬ、殉教することを暗示します。すなわち、このことばは患難時代の迫害と殉教を暗示しているのです。その時、多くの弟子は殉教するでしょう。しかし、その中で主に忠実で、かつ生き残る弟子たちもいるのです。聖書は患難時代における弟子は以下の3つに分かれることを語っています。

1) ペテロ: 殉教する
2) ヨハネ: 生き残る
3) ユダ : 裏切る

”生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。”

死んでいる人々が生き残る人々より先に復活します。その理由は殉教者は自分たちの命を主のために捧げた人達だからです。彼等には優先する理由があります。しかし、生き残っている人達も主の再臨の時には一瞬にして、復活の姿へと変えられます。以下を見て下さい。

1コリ15:51ー54
”51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。”

”みなが眠ってしまうのではなく、みな変えられる”
とは、全ての者が肉体の死を経験するわけではない、終末の時には生きたまま主を迎え、そのまま復活の体に変えられる人達もいるということでしょう。それがすなわち、生き残る人達なのです。

ここで、”終わりのラッパ”と記されています。KJV訳では”最後のラッパ”です。すなわち、最初のラッパ、2番目のラッパでなく、7番目、最後のラッパのことを述べています。これは黙示録の7つ目のラッパと思われます。

ですから、これらのことばは確かに患難時代の終わり、殉教者が眠り、生き残った人々がいる時の再臨を語っています。

この復活に関して他の箇所ではこう書いてあります。
 

”1コリ15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。”

ここでは、復活に関連した順序が記されています。それは以下の通りです。

1) まず初穂であるキリストの復活
2) 次にキリストの再臨のときキリストに属している者の復活。これが第一の復活です。
3) 次に終わりがきます。これは、この世とこの世についた教会へのさばきです。
 
 

”16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。”

ここに記されているラッパは最後のラッパ、第7のラッパと思われます。このことからも主の再臨が患難時代の終の時にあるということがわかります。

”それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり

”キリストにある死者(殉教者)がまず初めに蘇”るということばは、次の蘇りを暗示することばです。その次には生き残っていた者達が蘇える(変えられる)のです。以下のことばの通りです。

1コリ15:51、52”私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。”

”17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

ここで、主にあって殉教した者も、生き残った忠実な者も一つに、一緒にされることが書いてあります。この一つにされた者達は、他の箇所では”キリストの再臨のときキリストに属している者”と記しています。

”1コリ15:23 しかし(復活には)、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。”
 
 

主にあって、終末のみこころを行っていきたいと思います。
 

ー以上ー

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