通算No.105 油注がれた者は絶たれる

テキスト:
”ダニエル書9:26、27
26その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

本日は”油注がれた者は絶たれる”という題でメッセージします。

テキストのダニエル書の70週の預言には油そそがれた者が絶たれることが書いてあります。このことについて見ていきたいと思います。

さて、 初めに気をつけなければいけないことはこの書、ダニエル書を読む時には解釈に気をつけなければならないということです。何故解釈に気をつけなければならないかというと、このダニエル書の中には特に解釈(解き明かし)について何度も書かれているからです。ですから、この書に書かれている記述には解き明かしが必要です。隠されていること、たとえが含まれているのです。また2重の預言になっていることも多いのです。

さて、この70週の性格について考えてみましょう70週とは、福音書の”7度を70倍赦す”ということばと全く同じ原語です。ですから、このことばからも明らかなように、この70週は、神のその民への忍耐、寛容の期間です。逆にこの期間が過ぎ、終了すればその後、裁きの時に入るのです。実際、歴史をみるとこの期間の終に神の民への裁きが行われています。69週の後、油注がれた者ーキリストが絶たれた後、ユダヤ人達は裁かれ、エルサレムは崩壊してしまいました。また、終末に70週がフルに経過したあとには黙示録に記されているような神の民への裁きの時に入ります。

この節に書かれた”油注がれた者”は、イエスキリストのことです。彼は確かに2000年前に絶たれました。キリストの死はこの節の預言の成就です。さて、この預言は2重の預言ではないかと私は思っています。何故なら終末にも”油注がれた者”が絶たれることが預言されているからです。以下を見て下さい。

黙示録11:3、4
”3それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

この二人の預言者は患難時代に絶たれます。そしてこの2人はゼカリヤ書によれば油注がれた者です。

ゼカリヤ4:11ー14
”11私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
13すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
14彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」”

油注がれた者は第一義的にはイエスのことです。イエスは62週(69週)の後、絶たれます。しかし、この62週の後、とても長い空白があります。その空白の期間には教会時代が入ります。そして、教会時代の終りに再び”油注がれた者”ー終末の預言者が絶たれます。ですから、これは2重の預言です。まとめれば以下のようになります。

1. 62週の後(69週の後)、旧約時代の終りに、油注がれたイエスが絶たれる
2. 62週の後(69週の後)、教会時代の終りに、油注がれた預言者が絶たれる

さて、これらの終末の預言者、油注がれた者は何故絶たれるのでしょう。それを見ていきたいと思うのです。このことのヒントは、2000年前の油注がれた者、キリストについての記述にあります。
”油注がれた者”であるイエスに関しては、使徒行伝に記されています。

使徒4:23ー30
”23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
26 地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリスト(油注がれた者)に反抗して、一つに組んだ。』
27 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
28 あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30 御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」”

順に見ていきます。

この箇所を通して何故、油注がれた者が絶たれるのか、誰がその人を絶つのかについて書いてあります。誰が油注がれた者を絶ったのでしょう。それは、”ヘロデとポンテオ・ピラト”です。すなわち、神の民の王と異邦人の権力者、具体的にはローマ帝国の権力者です。このことは、また終末の日の予表です。誰が終末の日に神に油注がれた預言者達をこの地から絶つのでしょう。それは、淫婦バビロンで予表される神の民の王であり、またこの世の王です。

それでは、何故、油注がれた者が絶たれたのでしょう。その理由はこの”油注がれた者”という言葉自体にあります。イエスは、神のみこころを行い、神から来たわざをしました。また正しい真理を見ていました。それは主イエスが聖霊の油を注がれていたからです。それに反して“祭司長たちや長老たち”は、聖書を読んでおり、また色々と細かい宗教的儀式には、通じていても、聖霊の油注ぎがありませんでした。その結果、彼等は神のみこころから外れ、その極みとして、”油注がれた者”を殺してしまったのです。

これらは確かに62週(69週)の後、イエスの時に起こりました。しかし、これは2重の預言であり、終末の日にもう一度大規模な形で起こることの予表です。

ここで引用されている詩編の聖句を見て下さい。

詩編4:1ー4
”1 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民(もろもろの民)はむなしくつぶやくのか。
2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
3 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
4 天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。”

”国々は騒ぎ立ち、国民(もろもろの民)はむなしくつぶやくのか”と書いてあります。国も民も複数で記されているのです。しかし、イエスの時にはこのことは正確には成就していません。イエスの時には あくまで、ユダヤ一国の中で、騒ぎになり、裁判、処刑されたのです。”国々(複数)が騒ぎ立ったり、もろもろの民(複数の民族)”がむなしくつぶやくことはその時には、起きていません。

また、油注がれた者をさして、”彼等”と複数の表現になっています。ですから、これは終末の日に”油注がれた者達”におきてくることの予表なのです。終末の日には聖霊の”油注がれた者達”に関して、”国々は騒ぎ立ち、国民(もろもろの民)はむなしくつぶやく”のでしょう。また、”地の王たち(複数)は立ち構え、治める者たち(複数)は相ともに集まり”というように、国際的な、全世界的な騒ぎになっていくのでしょう。

すなわち、彼等を非難したり、罰したり、規制するような動きを始めるでしょう。今、EUで提出されつつある”カルト規制法案”などは、まさにそのことにつながるのではないかと私は思います。これによりペンテコステ等、”油注がれた”教会は、罰せられ、規制されるようになります。

”地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリスト(油注がれた者)に反抗して、一つに組んだ。』”ということばが文字通り、成就する時がくるでしょう。彼等は一つに組んで”このカルト”を規制することを実行するのです。

”27 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、”

”この都に集まり”とのことばに注目して下さい。このことばはイエスの時に起きたことを表わしますが、しかしまた、終末のできごとの預言です。

このこと、すなわち人々が油注がれた者に逆らって都に集まることはオバデヤ書に書いてあるように、終末にも起きます。

”オパデヤ11、12 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなた(エドム)もまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。
あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。”

”28 あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。”

油注がれた者であるイエスが2000年前十字架につけられ、除かれることはその当時の人々によりなされたことですが、それは反面あらかじめ神が定めたことです。
同じように終末に”油注がれた者たち”が除かれることも神が定めたことであり、神はそれを前もって聖書の中で語っております。

”29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30 御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」”

”油注がれた者”と関連して弟子達はみことばを大胆に語ること、いやしを行い、しるしと不思議をおこなうことについて語っています。

終末における”油注がれた者”とは誰でしょう。他でもない、この弟子達、ペテロやヨハネのすえのことなのです。彼等は終末の患難時代においてもみことばを大胆に語り(預言)、いやしをし、しるしと不思議を行います。それはまた黙示11章に記されたしるしを行う預言者の姿でもあります。

ですから、聖書は油注がれた者ーイエスについて記すとともに、同じみことばを通して終末の日の”油注がれた者達”に関しても、預言しているのです。これらは2重の預言なのです。

同じような2重の預言がペンテコステに関する記述にも用いられています。
ペンテコステの日に聖霊が下った時、ペテロはヨエル書を引用して、”終りの日に私の霊を全ての者に注ぐ”という預言の成就であると言いました。これも2重に成就する預言なのです。

何故なら、ペテロの時は終りの時ではなく、まだ教会時代が始まったばかりの時だったからです。ですから、このヨエル書の預言は教会時代の始めに起きた聖霊傾注ーペンテコステのリバイバルについて語った預言であるとともに、終末の聖霊傾注ー終末の大リバイバルの時をも見越した預言なのです。いえ、むしろ、終末の時の方に大きなウエイトがかかっているかもしれません。何故なら、”若者は預言し、老人は夢を見る””血、火、煙。主のおそるべき大いなる日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血に変わる。”といったことばはペンテコステの時には文字どおりには、成就しませんでした。これらは逆に終末に成就するのです。同じように、”油注がれた者”に関する多くの預言も終末の時に本格的に成就します。この預言もまた、終末における成就に大きなウエイトがあるのです。

”なぜ国々は騒ぎ立ち、国民(もろもろの民)はむなしくつぶやくのか。”との預言は、イエスの時にも、小規模には成就しました。これは、エルサレムの町の中では”大事件”だったからです。しかし、”国々”や”諸々の民”、すなわち国際的な、また全世界を巻き込んだ騒ぎにはなってはいないのです。これは型であり、終末における”油注がれた者たち”に関する国際的な動きについて、預言しているのです。

さて、冒頭のテキストを順にもう少し詳しくみていきたいと思います。

”ダニエル書9:26、27
26その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”
 

”やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。”

君主の民とは第一義的には、キリストの死後エルサレムを陥落させたカエサルの軍隊のことです。しかし、これはまた、終末に関する預言でもあります。終末にも反キリスト及びその軍隊が町と聖所を破壊するのです。しかし、この時の聖所とはイエスの体なる教会のことだと私は思っています。

”その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。”

70週の終りには教会には荒廃が定められています。何故でしょう。70週(70の7)は神の寛容の期間をさし、その期間に教会の真の悔い改めがおきなかったからです。
”その終わりには洪水が起こ”るとは、おそらく”洪水のような軍隊”のことをさすのでしょう。何故なら、ダニエル11章に”洪水のような軍隊”という表現があるからです。これはまた、黙示録にある淫婦バビロンが獣により、殺され、火で焼かれるとのことばの成就でもあります。そして、ここで”洪水”という表現を用いているのにはもう一つの意味があります。それは、終の時は”ノアの時のようである”と書かれたみことばの成就なのです。ノアの時、”肉にある”人々は洪水で滅びました。同じように終末にも”洪水”のような軍隊による滅びが起きるのです。

”27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び”

反キリストは1週の間多くの者と堅い契約を結びます。この”契約”ということばは神との契約をさすとき、用いられることばです。以下で使われているのと同じ言葉です。

”ダニエル書11:30キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。”

チェーンバイブルによればここでの契約は神とユダヤ人との契約をさすようです。ここで神との契約を捨てたユダヤ人が反キリストの型であるアンテイオコス エピファネスに優遇されました。
ですから、終末の時代に反キリストが”一週の間、多くの者と堅い契約を結”ぶとは、すなわち神の民である、クリスチャンがキリストを捨て、反キリストとの契約を結ぶということなのです。そのような7年間(1週)があるのです。

”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。”

”いけにえとささげ物”とは、文字通りにとれば、旧約時代の牛や羊のいけにえのことです。しかし、今の時代には、ユダヤ人もクリスチャンも誰も神に牛や羊を捧げてはいません。もうそういう時代ではないのです。ですから、これはたとえととるべきではないでしょうか。たとえととればこれは神への”生きた供えもの”クリスチャンの献身のことをさすのです。ですから、この時代は神への献身が中止される時です。

終末におけるみこころを行いましょう。

ー以上ー

 目次へ戻る