通算No.104 二人の証人

テキスト:ヨハネの黙示録 11:3、4
” 3それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

本日は”2人の証人”という題でメッセージを致します。

黙示録の中には終末の患難時代に神の預言をする2人の証人について書いてあります。これらの人々はどのような人々なのか見ていきたいと思います。これらの人々は終末に現われると預言されていた、エリヤ、モーセの働きをする人々であり、別の表現ではバプテスマのヨハネを通して予表されている人々です。

彼等のもう一つの面は”二本のオリーブの木、また二つの燭台”と言われているところです。この表現はゼカリヤ4章にも出ています。ゼカリヤ書を見てみましょう。

カリヤ4:1ー14

”1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。
7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」
8 ついで私に次のような主のことばがあった。
9 「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。
10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」
11 私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」”
 

ゼカリヤ書の時代、背景を考えるなら、これはバビロン捕囚の後、エルサレムに戻って来た人々が宮を再建することを記述しているものです。これは、今の時代の予表として見るなら、バビロン化した教会を建て直す時代、働きについての預言です。この箇所を順に見ていきます。

”1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。”

終末の時代は夜の時代であり、多くの人が眠ってしまう時代です。これはゲッセマネの園で眠りこけているペテロやヨハネの中に象徴的に示されています。しかし、この時代に主のみこころを行う預言者は”眠りからさまされた人のよう”なのです。

”2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」”
”4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」”
”12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」”

これらの節の中で、何度も”何を見ているのか””これは何ですか””あなたはこれらが何か知らないのか”という表現が繰り返されています。書かれている聖書のどのことばも意味のあることばです。ですから、これらのことばも意味のあることばです。主はこれらの質問や問いかけを記すことにより、この箇所で記されているものを我々が正しく理解して欲しいと望んでおられます。何故ならここに記されている燭台、オリーブ、これらのことばこそ、終末の時代における神の働きのかぎとなることばだからです。ですから、これらの記述を正しく理解することは、終末において神がなそうと計画しておられることを正しく理解することになるのです。

2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。”

この燭台は教会を表わします。以下のように書かれているからです。

”ヨハネの黙示録 1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。”

聖書の中では、教会は重大な存在なので、色々な表現があります。都、家等、色々あるのです。その中で”燭台”とは教会の”世の光”としての性格を表わす表現です。この燭台は全体が金でできています。”金”はクリスチャンの信仰をあらわすことばです。ですから、この教会は精練された金の信仰を持った真の教会です。また、ここで使用されている”七つのともしび皿””七つの管”というように数字の7はよく教会に関連して使用される数字なのです。黙示録では”、七つの燭台は七つの教会である”といわれています。出エジプト記に出てくる燭台にも7つの枝があります。これも教会の型です。

”出エジプト記 25:31ー33 
31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。
32 六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。
33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。”

さらに見ていきましょう。

3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
11 私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」”

ここで2本のオリーブの木について記してあります。聖書の中ではオリーブ、いちじく、ぶどうといった”木”は神の民を表わします。ですから、これは2種類の神の民です。2種類のオリーブについて書いてあるのは、ロマ書です。ここには、野性のオリーブと原木のオリーブについて書いてあります。これらは異邦人とイスラエル人のことです。ですから、終末には2種類の真の神の民がいます。異邦人からなるクリスチャンとイスラエル人からなるクリスチャンです。彼等は聖霊の油そそがれた者達です。また、最後の預言者であり、エリヤやモーセのような大きな働きをします。

”6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。”

ゼルバベルとは”バビロンで蒔かれた”という意味です。彼は終末の日にバビロン化した教会で育ち、尚かつ宮の再建のわざに献身する神の民の予表です。終末の器についてはその性格を表わすため、色々な表現、人の名前が用いられています。例えば、エリヤ、モーセ、バプテスマのヨハネ、そしてゼルバベルです。また、都や宮を再建したエズラ、ネヘミヤもその一面を表わす予表です。さて、ゼルバベルの宮の再建はどのようになされるでしょう。それは権力ーキリスト教会の一番えらい人が命令を出したからなされるというわけではありません。また、能力ー頭の良い人、仕事のできる人、能力のある人々を集めてできるわけではありません。ただ、”わたしの霊ー聖霊”の働きによりなされるのです。

”7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」”

大いなる山とは裁かれるバビロン化した教会をさします。これはヘブル書に記してある、揺るがされる山、燃える山シナイ山でもあります。また、この山は淫婦バビロンであり、また変質して野菜から大きな木になったからし種であり、パン種が行き渡った3斗の粉でもあります。

この山は本来あるべき所から高くなり、大きくなっています。バビロンの傲慢はきわみまで達しているのです。その山に対して神は、”大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。”といわれます。この”平地となれ”とのことばは以下のバプテスマヨハネに関することばとも通じるものがあります。

イザヤ40:3ー5
”3荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」”

ですから、ここでいわれていることはこういうことです。
長い年月により変形され、変質してしまった教会を再建する働きが始まるということです。大きな山がそびえたち、神への”道”がとざされ、通りにくくなっている状態を改善するわざが行われるというのです。これは具体的には、多くの聖霊のたまものの復活であり、またゆがめられてしまったみことばの真理の回復であると私は思っています。

”かしら石を運び出そう”と書いてあります。これはどういう意味でしょう。これは以下のことばと関係します。

マタイ21:42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。”

”ゼカリヤ書 10:3、4
3わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。
4 この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。”

このかしら石は”おおいなる山”すなわちバビロン化した教会から運びだされます。多くの終末のリバイバルの器がバビロン化した教会から、運びだされ、神に用いられることをいっているのです。

”9 「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。”

終末の日には崩され、廃虚となっていた神の宮は確かにその礎が据えられ、完成されます。教会は回復されるのです。このことを万軍の主がいわれました。それで、たしかにこのことは成就するのです。

”10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」”

”小さな事としてさげす”むとは、暗示的な表現です。もしかすると、この終末の神の器達の働きは神の前には大きなものであっても、終末の宗教の指導者、パリサイ人、律法学者にあたる人々には意味のあるものとしては認められないのかもしれません。”小さな事としてさげす”まれるのかもしれません。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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