通算No.101 山について

テキスト:ヘブル人への手紙 12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。

本日は”山について”という題でメッセージしたいと思います。聖書には度々山についての記述があります。このことばに託されている意味を見ていきたいと思います。

さて、テキストでは、”シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム”について書いてあります。
ここから山について見ていきたいと思います。”生ける神の都”は真の神の民の集まり、教会です。また、”天にあるエルサレム”も同じです。だとしたら、”シオンの山”も同じく神の民の集まり、教会をさすといえないでしょうか。

山の一つの特長はそこに木が生えることです。

”ハガイ書 1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。”

木にはオリーブ、いちじく、ぶどうと色々ありますが、これらは皆神の民を象徴的に表す木です。家も教会をさします。何故なら、普通の家の中に、父母、子供がいるように、教会にも神の家族である、兄弟姉妹、また、父母や子がいるからです。

聖書の中で、教会は重要な位置を占めているので、それをさすことばの種類は多いのです。家は神の家族を考えた時の教会の象徴であり、山は神の民をあらわす木が生える所としての教会の象徴です。

このことがわかってくると聖書の他のことばも開けてきます。

”マタイの福音書 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。”

神の民に関して語る時、山の上にある町といいます。

”マタイの福音書 18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。”

99匹の羊は神をすでに信じている信者です。信者はどこにいるでしょう。教会にいます。それで羊は山ー教会に残されると書いてあるのです。

”マルコの福音書 13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。”

山はたとえであり、教会をさします。人々は教会に逃げるのです。

”ルカの福音書 23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。”

本当に崖崩れのように山が倒れかかったら、人は死んでしまいます。これはたとえであり、山ー教会へ助けを求めている人々のありさまを示します。

”ヨハネの黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。”

小羊なるキリストは聖徒の教会に居られます。ですから、小羊は”シオンの山の上に立って”いるのです。

”ガラテヤ人への手紙 4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。”

ここではシナイ山がエルサレムー神の民の教会であると語られています。山は教会なのです。

”ヨハネの黙示録 8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。”

火が燃える山が海に投げ込まれるとは教会に対するさばきをさします。

”ヨハネの黙示録 6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。”
”ヨハネの黙示録 16:20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。”

山が移されたり、見えなくなるということは、終末の迫害の中で、教会が解散させられたり、中止されたりすることをいうと思えます。

この山ということばを通して語られる主の語りかけを受けていきたいと思います。
 

ー以上ー

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