通算No.46 仮庵の祭

テキスト: レビ23:39ー43
”39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。
41 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。
42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。
43 これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」”

本日は仮庵の祭についてみていきたいと思います。
仮庵の祭の中には終末の教会に関する多くの語りかけがあります。それを見ていきたいと思います。

申16:16
” あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。”

イスラエルには3つの大きな祭があります。それは、過ぎ越しの祭、7週の祭、そして仮庵の祭です。この3つの祭は世の初めから終までにおきる大きな3つのできごとの予表です。過ぎ越しの祭は神の子羊キリストの死の予表です。7週の祭は5旬節におきたペンテコステの予表であり、また仮庵の祭は収穫祭であり、世の終の大きな大収穫、リバイバルのことを含む予表です。

出23:16
”また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。”

これらの3つの祭には一貫した一つの意味の流れがあります。すなわち、過ぎ越しの祭は一粒の麦であるキリストの死を象徴し、7週の祭は別名、初穂の祭です。この日、ペンテコステの日に聖霊を受けた人達はまさしく初穂です。初穂ということばは一面もっと大きな収穫をも予感させるものですが、終末には仮庵の祭、すなわち大収穫を祝う祭があります。そして現在では、2つの祭が予表していることはすでに終わっています。後は最後の祭が残るのみです。

仮庵の祭は終末の時代を予表した祭です。聖書の中に書かれている終末の預言の多くははたとえと謎の中に隠されています。それで、この祭に関してもたとえが使われていることが予想されます。この祭を通して終末に関して神が語られていることがあるのですが、それはたとえを理解するつもりがないと開けてこないのです。

さて、仮庵の祭の中で一つ不思議なことは、それを祝う人々がみな、仮庵すなわち、幕屋に7日間住むことです。収穫を祝うのに何故、仮庵に住まなければならないのでしょう。自分の家で祝ってはまずいのでしょうか。よく意味のわからない祭なのです。その意味をみていきたいと思います。

話はかわりますが、終末には大きな大リバイバルがくること、そしてその後、大きな患難の時代が来ることを聖書の多くの記事は語っています。たとえば、ヨセフの解いたパロ王の7年の豊作と7年のききんの夢、ここにもリバイバルとその後の迫害の時代について記してあります。

申16:13
” あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。”

テキストには度々7日間ということばが出てきます。これは7年間あるといわれている迫害時代を象徴していると思ええるのです。
 

7日は7年の予表と考えられます。さて、この仮庵の祭はリバイバルの7年の時のことを語っているのでしょうか、それとも迫害の7年の時でしょうか、どちらの時に対応しているのでしょう。テキストをみてみると”あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には”と書いてあります。収穫が終わっているのですから、リバイバルが終わっている、すなわち迫害の7年の時を扱っているととったほうがよいと思われます。

さてイスラエルの3大祭とはいわれているものの、聖書の中で実際にイスラエル人がこの祭を祝っている記事は少ないのです。しかし、その一つがネヘミヤ記にあります。

ネヘミヤ記の記事はバビロンから出てきた民が新しくエルサレムを再建する記事です。私はこの記事は将来バビロン化された教会から抜けだしてくる神の民に関する記事だと理解しています。バビロン化された教会から神の民が抜け出してくるのは、患難時代のことですから、そういう意味でもこの祭は患難時代を扱っていると思われます。さて、ネヘミヤの記事を見てみましょう。

ネヘミヤ8:13ー17
”13 二日目に、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。
14 こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。
15 これを聞くと、彼らは、自分たちのすべての町々とエルサレムに、次のようなおふれを出した。「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい。」
16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。
17 捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。”

さて、これらの記述が患難時代の神の民に関して何かを語っているとすると、仮庵をに住むという行いを通して何を神は我々に語っているのでしょう。何を教えようとしているのでしょう。これらの記述に書かれているたとえを見ていきたいと思います。

”オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし”

これらの枝で仮庵を作ることが語られています。ここに書かれているこれらの木は何をたとえているのでしょう。以下の記述を見て下さい。これらの木が神の民を象徴していることがわかります。

<オリーブ>
ロマ11:24
 ”もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。 ”
オリーブはイスラエル人、異邦人から神の民になった人々をさします。

<ミルトス>
イザヤ55:13
”いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。”

<なつめやし>
詩92:12
”正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。”

正しい者はなつめやしの木のようだと書かれています。
さて、これらの木の枝で仮庵を作るわけですが、その作る場所に注目してください。
”自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場”
と書いてあります。これらの場所をどう考えればよいのでしょう。一ついえることがあります。それは家などの中ではなく、外だということです。すなわち、どの場所も外であり、具体的にはこれらの場所は家の外、神の宮の外、また門の外だということです。

そして、新約聖書をの終末に関しての記事を思い出してください。ここにあげられたネヘミヤ記のことばと対応したことばが使われていることに気付きます。

<家の屋根の上や、庭の中>
マタイ24:17
” 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。”
 

<神の宮の庭>
2テサ2:4
”彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。”

<水の門の広場、エフライムの門の広場>
ルカ21:21
”都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。”

マタイ24章に書かれている”屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。”という表現は常識的に考えるなら、とても変な表現です。また、聖書の中でもめったに出てこない非常に特殊な表現です。いくら患難時代が特殊であるとしても患難時代は7年間、大患難時代のみでも3年半続くのに、その間ずっと家の屋上に上がったまま、降りて来ないということは普通にはありえないことです。これは何かをたとえていると思った方が妥当でしょう。さて、たとえているとしたら何をたとえているのでしょう。これを解くのは難しいのですが、このネヘミヤ記にまさに同じことが書いてあるのです。家の上に仮庵を建ててそこに7日間住むことが記されているのです。

このことばに注目して下さい。「屋上」と「家の屋根」というようにマタイ書とネヘミヤ書で異なる日本語が使われているようですが、実際の原文は同じギリシャ語(70人訳)が使われています。
全く同じことばが使われている以上、この2つの記事は関連があると思ってよいでしょう。
また、マタイの方の節をみて下さい。”屋上にいるもの ”と書いてあります。これはいかにも突然というかんじの文です。この人は屋上に上がっています。しかし、何故屋上へ上がったのでしょう。何かいきさつとか理由があるのでしょうがそれについては何も書かれていないのです。まるで一つの文の後半だけを切り取って持ってきたというようです。

この文の前半は仮庵の記述にあると私はあると思っています。すなわち、7日間の間、家の屋根に住む人々にそこから降りてくるな、家に入るなと語っているのです。しかし、実際問題、いくら7日間とはいっても一度も家に入らないということは難しいことだと思われます。食事を作るためには、台所に行かなければならないでしょうし、トイレだって使うわけです。しかし、このことばを文字通りとるとつじつまがあわないでしょうが、これはたとえなのです。家は教会をさし、この7年間の患難時代の間、公の教会に入るなということをいっているのです。

神は意図をもって家の屋根のことをこのように書かれたのです。それは私たちにこれらの記述が関係があることを悟らせるためです。

新約聖書の中には家に入るな、都に入るなと書いてあります。また、神の宮には反キリストが座ると書いてあります。家、都ーエルサレム、神の宮はみな教会をさすたとえです。

ですから、仮庵を”家や神の宮、都の門”の外につくるとは、すなわち家、神の宮、都の中に入るなー即ち終末のバビロン化された教会から出てくることを語っています。

そして単に出てくるだけでなく仮庵を作ることを命じています。原語では仮庵ということばは旧約聖書で使われている幕屋と同じことばです。ですから、仮庵の祭は正確には”幕屋の祭”とでも訳すべきと思われます。この幕屋には、荒野で神が住まわれました。神の臨在があったのです。ですから、仮庵はオリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、すなわち神の民の集まりからできており、また神の臨在があるのです。一本の枝では庵をつくることはできませんから、複数の兄弟姉妹が集うことを語っているのです。また、公の建物ではなく、仮の庵について、すなわち非公式の神の民の集まりについて語っているのです。ですから、私は”仮庵”で象徴されていることは、要するに地下教会のことではないかと思っています。

このような考えはとっぴに聞こえるかもしれません。しかし、他のいくつかのみことばも同じことを語っています。

詩27:5
”それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。”

このことばにも仮庵(幕屋)と同じことばが使われています。”悩みの日に..幕屋のひそかな所に私をかくま”うことについて語っています。

別の例として聖書に書かれているキリストと仮庵の祭の関係を見ていきたいと思います。福音書の中にそれぞれの祭についての説明、補足がさりげなく書かれたり、暗示されています。たとえば、過ぎ越しの祭については、こう書かれています。

ヨハ13:1

 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。”

イエスこそ、まさに過ぎ超しの子羊です。そして、過ぎ越しの祭は子羊であるイエスが死なれて初めて完成されるのですが、それを”イエスがこの世を去って天の父のもとにいく”ということばで示されています。ですから、この節には過ぎ越しの祭の説明が隠されているのです。

さて、旧約の過ぎ超しの祭に関して、福音書の中ではイエスの記述の中で説明、ヒントがあったわけです。同じことが仮庵の祭についてもいえます。この祭についても、イエスの記述の中にヒントがあります。それをみていきたいと思います。

ヨハネ7:1ー11
”1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。
8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。
11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。”
 

仮庵の祭の記述のすぐ前に”ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた”と記されています。これは決して偶然に書かれたわけではありません。神が仮庵の祭の意味を暗示するために書かれた記述なのです。

”神の民”であるはずのユダヤ人達がイエスを殺そうとしていたのです。そしてそれが丁度仮庵の祭の時なのです。同じように私たちも将来、迫害の中で命の危険を感じる時がきます。その時が仮庵の祭で象徴される患難時代の時なのです。

また、”世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。”と書いてあります。この世が私たちを憎み、迫害する時、それが仮庵の時なのです。

また、”公にではなく、いわば内密に上って行かれた。”と書いてあります。私たちクリスチャン
がこの世からも、また公の教会からもひっそりと身を隠す時、それが仮庵の時なのです。

また”ユダヤ人たちは、祭りのとき..イエスを捜していた。”と書いてあります。ユダヤ人達は神のしもべであるイエスを害するために探していたと思われます。ですから、この仮庵の祭が象徴する終末の時には、敵が真のクリスチャンを探すということが起こるでしょう。

またヨハネ16:2でイエスは人々が主の弟子たちを会堂から追放し、彼等を殺す者達が自分は神に仕えていると思うときがくると語っておられます。この時が仮庵の祭で象徴している時なのです。

黙示録にも似たような記述があります。

黙12:13ー16
”13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。”

女が3年半の間、荒野で養われることが書いてあります。この女も教会をさすと思われます。

また、”エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせた”
と書いてあります。これは何を語っているのでしょう。

昔、出エジプトした神の民は仮庵(幕屋)に住みました。同じ様に、終末にこの世から出エジプトする神の民も仮庵に住むのです。教会時代の最後に神の民は仮庵に住むこと、このことをこの祭は語っているのです。

ますます、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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