通算No.43 教師へのさばき

テキスト:ヤコブ3:1ー10
”1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
4 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。
7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。”

本日は教師へのさばきという題でメッセージしたいと思います。
テキストのヤコブ書には教師について書いてあります。

”私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。”

このことばから、私たちは教師という職務が特別にきびしい裁きをうけるものであることがわかります。
教師は神のことばを教えるつとめです。そのさばきがきびしいとは意外な気もしますが、しかし
どのようにそのさばきがきびしいのか、また何故それはきびしいのかを見ていきたいと思います。
他のみことばには”牧師また教師”とあり、牧師と教師の職務は似ているようですから、これは広い意味では牧師のことをも含む警告かもしれません。

初めにみておきたいことがあります。それは、福音書の中に、新約の教師にあたる人々が書かれていることです。イエスキリストはその人達、すなわち、律法学者、パリサイ人達を何度かきびしいことばで非難しています。ある箇所では”蛇よ、まむしの末よ”とまで呼んでいます。敵を愛せといわれたキリストのことばとしては、非常に厳しいものです。何故でしょう。

彼等は民を教える立場なのです。彼等が間違えた時、多くの民も間違えてしまうのです。ですから、このようにきびしいことばが語られたのです。律法学者、パリサイ人達は旧約聖書を守っていた人達です。しかし、それにとどまらず、彼等は新約の教師の予表であり型です。聖書に書かれた彼等に関する記事は新約の我々が同じ間違いに入らないために書かれた予表、警告なのです。
新約の教会における教師はイエスの時の律法学者、パリサイ人たちに対応する職務です。ですから、教師へのさばきが律法学者、パリサイ人達へのさばきのようにきびしいものとなることが想像できます。

また、一つ注目すべきことがあります。教会には他にも職務はありますが、使徒、預言者、伝道者、いやす者、異言を語る者等にはこの様な厳しいことは書かれていないのです。逆に教師に関してはこのように厳しい警告が与えられています。どうぞこのことを考えてみて下さい。

教師と他の職務との違いは何でしょう。伝道者は単純な福音を語ります。そこに問題の入ってくる余地はありません。預言者は神からきた預言を語ります。違う霊をとらえて間違えた預言をするという可能性はあるかもしれませんが、しかし他の人が吟味するなら、大事に至らないかもしれません。癒す者、異言を語るものも大きな問題を起こしそうもありません。

しかし、教師はこれらの職務とは別の立場にいます。彼等は直接神のみことばを扱います。もし彼等が間違えるなら、教会全体が間違えてしまうのです。しかも彼等は専門家なので、それを是正する人もいないのです。

そして、サタンの攻撃はここに集中しており、もっとも間違えのおきやすい職務なのです。キリストが律法学者や律法の専門家をきびしく非難したのは、その理由からなのです。

律法学者が聖書に基づき”安息日に人の病を癒す者は神の教えを破るものだ”と語るなら、群衆はそれにならいます。同じように今の時代の教師が間違えれば信者はそれに従うのです。

さてさらにみことばを見ていきたいと思います。テキストの箇所は、たとえが使われており2重の意味があります。表面的な解釈とともにたとえの意味があります。表面的な意味は読んでわかるように、人の舌、すなわちことばを慎むことに関する教え、警告です。しかし、隠れたたとえが使われており、そこには教師に関する警告が書かれています。今日は表面的な意味ではなく、もう一つの面、たとえの面を見ていきたいと思います。

”私たちはみな、多くの点で失敗(offend−つまづかせる)をするものです。”

”失敗”と訳されていることばの原意は”つまづかせる”ということばです。
ロマ11:11”彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。”
このみことばで使われているのと同じことばです。

ここでいわれていることは、私たちは人の歩みをつまづかせるということです。教師のことばのゆえに多くの人がつまずく可能性がある。だから、多くの人は教師という職務につくべきではないといわれているのです。

”もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。”

ここで使われている”ことば”という文字は、人がおしゃべりをする時のことばともとれるでしょう。しかし、もう一つの意味があります。ここで使用されている単語はロゴスであり、いわゆる神の”みことば”をもさすのです。ですから、ここで言っていることは、私たちの神のみことばへの取扱いです。この取扱いを間違えるとき、多くの神の祝福は制限され、また信徒は入るべきところに入れなくなるのです。
新約のユダヤ人たちが割礼に関する神のことばを取り間違えた時、教会はまたもや、律法の奴隷になりそうになりました。神のことばの取扱がいかに大事かわかります。

また、”からだ”と言う文字があります。聖書の中では体は”キリストの体ー教会”をも意味します。これらを踏まえて読んでいくべきです。

ですから、ここで聖書が隠された意味として語っていることは、こういうことです。もし聖書のことばのつとめにおいて間違えず、正しく語ることができるなら、その人は教会全体をりっぱに制御、管理できるりっぱな奉仕者だということです。

馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。”

このヤコブ書3章は普通に読むと変な構成です。
初めは教師が厳しいさばきをうけることについて書いてあります。それはわかります。しかし、突然のように話題は変わって馬のくつわ、船のかじの話になります。そして、最後は人の舌の話になります。

”賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。”というように舌についてはきびしい話がずっと続くのです。

確かに自分の舌には気をつけなければいけないな、教会で礼拝が終わった後、すぐ人の悪口をいったりしてはいけないなと思うのです。しかし、疑問があります。これらの舌に気をつける、悪口をいわないということと最初の主題、教師への厳しいさばきということはどういうふうに関連づけられるのでしょうか。

それを解くために、これらの箇所が2重の構造になっていることに気がつかなければなりません。ヤコブがそのように意図して書いたのかどうかは不明です。しかし、聖霊はそのようにこの箇所を書かれました。隠された意味をみていきたいと思います。

さてここから3つのたとえが出てきます。それは馬のくつわ、船のかじ、人の舌です。
そしてこの3つのたとえは実は、全て同じことをさしているのです。これらの3つは、どれも教師をさすたとえなのです。

小さなくつわを動かすことにより大きな馬のからだ全体は引き回されます。また、小さな舵により、大きな船が制御されます。また小さな舌により体全体が汚されるのです。これは同じことをたとえています。くつわも舵も舌も「教師」をさし、引き回される馬の体、船、人の体はみな「教会全体」をさします。”からだ全体””馬の体ぜんたい”というように全体という表現が度々出てきます。これは、教師に対する教会ーみからだ全体のことをいっているのです。

すなわち、教師は教会の体全体を制御するということを語っているのです。

そして、もし教師が間違えるなら、教会全体がさばきにあってしまうのです。
このヤコブ書の箇所はそれを暗示しています。”馬のくつわ”という大変特殊な表現がここに出てきます。めったにない表現ですが、新約聖書の中で、もう一箇所だけ、これと全く同じ表現が出てくるところがあります。

黙示14:20
”その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”

”酒ぶねが踏まれる”ことはさばきを表しています。そしてその血が馬のくつわに届くとは暗示的な表現です。さばかれたその血は馬のくつわー教師にまで及ぶのです。

”同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。”

舌は小さな器官であると書いてあります。
ロマ12:4
”一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、”と書かれているように、舌ー教師はみからだの中でも小さな器官なのです。

しかし、その火により森全体が焼かれるのです。教師が間違えるとき、全ての教会員が間違えるのです。その結果、さばきの火は全体に及ぶのです。

ゼキエル15章6、7節
”それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエルサレムの住民を、わたしがたきぎとして火に投げ入れた、森の木立の間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう。
 わたしは彼らから顔をそむける。彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう。わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。”

終末には毒麦が焼かれる、淫婦バビロンが焼かれると聖書に書いてあります。何故彼等は裁かれ、焼かれてしまうのでしょう。その大きな原因の一つは、舵をとる立場の教師が間違えるからです。また、正しい警告をしないからです。

また舌は”そしてゲへナの火によって焼かれます”と書いてあります。このことばはイエスがパリサイ人達にいったこのことばを思い起こさせます。
マタイ23:33” おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。”

”舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し”と書いてあります。教師が正しくみことばを語らないとき体全体が間違え、そして汚れてしまうのです。

”どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。”

ここで舌を制御することはできないと書いてあります。教師を制御することはできないといっているのです。これは教会において事実です。誰が教会において神のみことばを語る立場の人を制御したり、反対することができるでしょう。総理大臣だって、大統領だって、教会にくれば一信徒なのでできないのです。それゆえその誤りを正すことは難しいのです。そのことを言っているのです。

例えば、カソリック教会の中で舌にあたる人が何かを語ります。それが、正しい言葉、教えならよいのですが、時々間違ったことをいいます。教皇は無原罪、マリヤも無原罪、進化論は正しい。これらはまったく間違った教えですが、カソリック教会の中ではだれ一人、これをとめたり、いさめることはできないのです。まさに、”しかし、舌を制御することは、だれにもできません”と書かれた通りです。もちろん、これはカソリックだけのことではありません。

” 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。”

同じ舌ー教師が片方では父なる神をほめたたえ、一方で人を呪う、このようなことが有り得るでしょうか。ありえます。現にキリストの時がそうでした。パリサイ人達は安息日に神を礼拝し、誉めたたえ、そして同じ安息日に人の子であるイエスを安息日を破った者として、呪ったのです。

これはイエスの時代だけではありません。ルターの時も、ウエスレーの時もそうでした。これらの預言者を迫害したのは、神に仕える立場、神を賛美する人々だったのです。

みことばを取り扱う者に関する責任や裁きはパリサイ人の時も今もまったく同じです。主の警告を心にとめ、奉仕していきたいと思います。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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