通算No.42 みことばと神学

テキスト:マタイ12:9ー14

”9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。”

このテキストでパリサイ人達がイエスをどのようにして殺そうかと相談したことがわかります。彼等はイエスを殺そうとして相談し、実際殺してしまったのです。神のことばを預かる立場の彼等が神の子を殺してしまったのです。

パリサイ人、律法学者はイエスを非難し、迫害しました。何故でしょう。その一番大きな理由はイエスが、神の教えを守らず、律法を守らず、安息日を守らないと彼等が思ったからなのです。しかし、神の子である、イエスが律法を守らない、神のみこころから外れたことをするということは実際はありえません。

真実は何でしょう。神の前の真実は何でしょう。実際は、イエスを非難した彼等こそ、聖書の中で示されている神のみこころから離れていたのです。自分の考えで律法すなわち聖書を解釈し、罪のない人まで、罪に定めていたのです。しかし、これは目に見えない神の前における現実であり、人の前での現実は異なっていました。

パリサイ人達のことばは神を信じるユダヤ人達の前に説得力があり、納得させるものがあり、群衆は彼等の教えに従っていたのです。実際、一時はイエスを認めていた群衆も結局はパリサイ人達に従い、イエスを殺す立場に立ったことを思い出してください。

イエスの行った死に値する罪とは何でしょう。イエスは確かに安息日に人の病をいやしました。パリサイ人達は、これは神に反する、また律法すなわち聖書に反する重大な罪だと思いました。しかし、実際はそうではなく、イエスが犯したのはパリサイ人達が思いえがいた教理、神学にすぎないのです。神に従わなかったのではなく、彼等の常識、教理に従わなかったのです。これらの2種類のものは似ているようですが、実際は異なるものです。

さて、これらのできごとは終末の我々の時代に対する型です。同じようなことがこの時代に起きてくるはずです。
”人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。”と書いてあるからです。

どうぞ、福音書を通して、神が繰り返して教えている一つの原則、現実に気付いてください。イエスは神に罪を犯した訳ではない、また律法、すなわち聖書のことばを犯したわけではない、しかし、その当時の神のみことばの権威者である、律法学者、パリサイ人達の教えとは反していた、相入れなかった、そのために殺されたのです。聖書を守らなかったのではなく、彼等の教理、神学を守らなかったので殺されたのです。しかも、神に逆らう者、聖書に逆らうものとして殺されたのです。

聖書の教え、みことばに従わないということは一つのことです。そして、教理、神学、キリスト教界の言い伝えに従わないということはまた一つのことです。この二つがイコールのこともありますが、そうでない時もあるのです。
正しく神のことばとそうでないものとを区別していきましょう。終末における主のみこころを行っていきたいと思います。 
 
ー以上ー

目次へ戻る moku2.html
 

 目次に戻る