通算No.39 封印された預言

テキスト: ダニエル9:24

”あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証(KJV訳ー封印)し、至聖所に油をそそぐためである。”

ダニエル12:9
”ダニエルいけ、このことばは終のときまで、秘められ、封じられているからだ。..悪者ともは悪を行い、ひとりも悟るるものがいない。”
 

テキストでは、70週が定められそして、幻と預言がある期間封印されることが書いてあります。同じダニエル書の他の箇所にもこの幻を世の終まで、封じておくことが書いてあります。
 

それでいくつかのことがわかります。

1 神の定められた時、すなわち終末が来るまでは、終末に関する幻、預言は封じられている。書物は巻物に書かれ、封印されています。これは何を意味するのでしょう。この封印を開くまでは書物をよむことはできないということをさすのです。神が封じられた書物を誰が開くことができるでしょう。ですから、神の定めた終末の時までは、これらの預言は封じられたままでとどまります。聖書の注解者の能力があるから終末の預言が開かれるとか開かれないとかいう問題ではないのです。どのような人が読んでも主の定めたその時までは開かれないのです。

2 逆にもう一つのことがいえます。終末の時になれば、神の知恵と預言を解きあかす霊は注がれ、終末の預言、幻は開かれてくるのです。その人の能力と関係なしに主に求めるなら開かれるのです。

3 さらにもう一つのことが言えます。終末の預言に関する解釈は今までの解釈、古い解釈、何百年も前の解釈とは違ったものになるだろうということです。今まで開かれなかった書物が開かれるのですから違っていて当然なのです。だから、終末の預言の解釈は、それが、今まで聞いたことのある解釈と違うということのみをもって判断はできません。もちろん、吟味は必要ですが。封印を開いたら、たまたま今までの解釈と同じことが書いてあったということもあるでしょうが、そうでない可能性の方が高いのです。

4また、全ての人がこの終末の預言、幻を悟るわけではない、逆に悪者どもは一人も悟ることはないのです。

神は何故、終末のことがらを世の終りまで、わからないように封じておくようにしたのでしょうか。おそらく終末までは、不必要なことで、混乱をおこさないためでしょう。終末のことがらは特殊なことであり、それまでの時代の人には適用できないことです。ですから、神はそれまでの人々に、このことがらに関して開くつもりはなかったのです。しかし、今は世の終です。封印は開かれつつあります。求める人には啓示と預言と幻の説き明かしが与えられる時代になってきたのです。

マタイ12:42
” 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。”

キリストはこのみことばで、”今の時代”の人々がソロモンにまさるキリストの知恵を求めないので、南の女王により罪にさだめられるといわれています。”今の時代”とは終末の時代の予表であると私は思っています。ですから、このことばは終末の時代の私たちがキリストに知恵を求めない時、我々も裁かれてしまうということをいっているのです。

この知恵とは具体的にどのような種類の知恵について語っているのかは不明です。しかし、私はみことばを解き明かす知恵の霊のことではないかと思っています。もちろん、それ以外のこともいっているのかもしれませんが、私にはそう感じられるのです。

今の時代ー終末の時代には、神の封印が開かれています。ですから、求める者には誰にでもこれらの啓示は開かれるのです。終末の預言のことばはたとえを用いてあったりして一見、解釈は難しそうです。しかし、私たちの頭が悪くて、理解できなくても心配はいりません。知恵のある人にきけばよいのです。南の女王はそれをしました。彼女はソロモンの知恵をきくために地の果てからやってきたのです。

しかし、今の時代の人々は多くの参考書にはきいても肝心な知恵の君、キリストにきいていない、その結果終末の預言を間違えて解釈してしまう、そのことを言っているのではないかと思えます。

主に知恵を求めるなら、終末の幻、預言を正しく理解でき、正しく対応できます。しかし、逆に主に求めもせず、ぼーとしているなら、間違えてしまうこともありえます。

ですから、私たちは誰でも立ち止まって一度は考えるべきではないでしょうか。自分ははたしてこのことに関して、主に知恵を求めたのだろうか。南の女王に罪に定められてしまってからでは遅いのでその前に考えるべきなのです。

何故そういうかというと、間違える人が多いからです。たとえばイエスの時代の人々がそうです。

”エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。”

神の知恵であるキリストはエルサレムの崩壊を語ったのですが、パリサイ人、律法学者も群衆も、皆その知恵に聞かず、目を開きませんでした。結果として、ローマの軍隊によりエルサレムは滅ぼされてしまったのです。

エレミヤの時にも同じことが起こりました。エレミヤはエルサレム崩壊を語りましたが、それをきいた祭司達は怒り、彼を殺そうとしたのです。これは、彼等には寝耳に水であり、とても心に受け入れられないことだったのです。

さて、エレミヤの時代のこと、イエスの時代のことは終末の時代に関する予表です。
かつてエレミヤが主イエスが人々にエルサレムの崩壊について預言をしたように、今の時代にも神はエルサレムの崩壊について語っています。

もちろん、多くの今の聖書学者がイスラエルの首都エルサレムに関する終末の時代における崩壊を語っていますが、そのことではないのです。今、神が語られているのは、霊的エルサレムー教会のさばきのことです。ペテロがいう”神の家のさばき”です。

しかし、このようなことを今のキリスト教会で言えばどのような反応を受けるでしょうか。反発は必至、迫害や異端よばわりもあるかもしれません。

しかし、もしそのような反応を受けたとしてもびっくりしたり意外に思う必要はありません。そのことは前もって語られていたことです。エルサレムの崩壊を語ったエレミヤをその当時の人達が迫害したこと、またエルサレムのさばきについて語った主イエスをその当時の人々が迫害したこと、これはまさに今の時代の人々への予表として書かれたことなのです。終末の時代にも正しくエルサレムの崩壊を預言するなら迫害は覚悟しなければならないのです。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー 

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