通算No.38 ダニエルの70週のたとえ

テキスト: ダニエル9:24ー27

”あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週(原文70の7)
が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”
 

本日はダニエル書に書かれている70週について考えてみたいと思います。

この70週の預言は数ある聖書の預言の中でももっとも正確に成就した預言として、有名です。
すなわち、”引き揚げてエルサレムを再建せよ”との命令が出てから69週は483年に相当し、紀元前457年の勅令から紀元26年のイエスが公生涯に入られた年までが丁度その期間に相当します。ぴったり成就しているのです。その後、”その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。”
との言葉通り、メシア、キリストは絶たれました。ですから、この70週の預言はスタートしたタイムウオッチが正確に時を刻むようにスタートした年(紀元前457年の勅令)から69週が満ちるまで正確に進み、1年の狂いもなく預言を成就したのです。

しかし、その後、不思議なことが起こりました。突然、タイムウオッチは止まり、ゲームは中断されたのです。2000年近くの間、中断されたのです。終末にはこのタイムウオッチは再度動き出して時を刻むでしょうが今は止まったままです。

ここで疑問があります。何故、神はこのような変わった方法で、70週を定めたのでしょう。69週までは、イエスの時代までで終了し、最後の1週のみ世の終に成就します。この間に長い空白があるのです。まるで、一つのセンテンスの途中に長いかっこが入っているようです。何故神はこのように不思議な方法を用いたのでしょう。

私も長い間わからなかったのですが、今はこう思います。この預言は2重の預言であり、その成就も2重に行われる、そのため、このような変わった形の成就になったのだと思うのです。

この69週と最後の1週との間に何があったのか、何が入るのかを考えて見て下さい。この間にすっぽり、教会時代が入ります。第一義的なエルサレムはイスラエルの首都であり、紀元30年に油そそがれた者、すなわちキリストが絶たれた後、この都は紀元70年に君主の民、ローマの軍隊により、滅ぼされます。これは69週の後のことです。そして、これは預言の一つ目の成就です。

しかし、この滅亡は型であり、もう一つの滅亡を予表したものです。第2義的なエルサレムについて、考えなければなりません。第2義的なエルサレムは教会を象徴しています。そして、神の民はクリスチャンのことです。、
”やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。”との言葉は2重に成就します。紀元70年には君主の民ーローマの民がエルサレムを滅ぼしました。そして、終末にも君主の民ー復活したローマ(EU?)の民が町と聖所、すなわち神の町であり、神の聖所である教会を滅ぼすでしょう。

すなわち、この70週の間に第一義的エルサレム、第二義的エルサレム、この2つのエルサレムの荒廃が起きるのです。それで、そのスタートから終了まで、2000年以上の長い時がかかるのです。

”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。”と書いてあるので、患難時代の3年半の間、クリスチャンのキリストへの献身と礼拝は中止されるでしょう。

キリストには”油そそがれた者、君主”との表現、この統治者には”来たるべき君主”
との表現が書いてあります。どちらも同じ”君主”ということばが使用されているのです。この統治者こそ反キリストであることを暗に示そうとしているのではないかと思います。

しかし、何故このような複雑な預言をしたのでしょう。何故2つのことを一つにまとめて預言したのでしょう。何か、神の知恵があるはずです。それは何でしょう。

それは私たちに示唆を与えるためにです。私たちはみな、エルサレムに関する預言が私たちと関係があることを知りません。無関係でないどころか、実はエルサレムに関する預言は教会に関する預言でもあり、警告なのですが、それを認めません。

それで、神はこの70週の預言は教会時代をはさんだ様な形で成就することにしたのです。
これは神が私たちに気付かせようとして、わざわざ用意したヒントなので、我々は悟らなければなりません。

例えば、もしこの70週がキリストの時代に完結していたなら、どうして、この預言が教会への予表だと気がつくでしょう。

また預言をこのような形にしたもう一つの理由は、片方をもって、他方を類推するためです。神のこの預言を与えた意図は患難時代に入る前に教会に関して、預言を与え、警告を与えることです。その警告はどこに書かれているでしょう。それは、旧約聖書、例えばエレミヤ書に書いてあるエルサレムに関する多くの警告です。これは、新訳のエルサレム、教会への警告でもあるのです。

紀元70年に首都エルサレムが荒す憎むべき者により滅ぼされたことは、新約のエルサレム、教会への警告であり、私たちが同じ過ちを犯さないために教訓として与えられているのです。イスラエルの首都エルサレムの滅亡を見て、他人ごととはせず、教訓を受けること、それが神のみこころなのです。

ですから、神がこの70週の預言を通して語りたかったことはこのようなことです。69週の後、イスラエルの首都エルサレムの上に起きた滅亡は悲惨なことではあったが、しかし決してこれが最重要問題ではない、逆にこの裁きをもって予表されている、世の終の神の民と神の都ー教会の裁き、これがこの70週の預言の目標であり、結論である。

さて、話を変えて、この70週の性格を考えて見ましょう。この70週とはどういう性格の期間なのでしょう。すなわち、これはエルサレム、神の民が回復するまでに要する期間なのでしょうか。それとも彼等が荒廃、滅亡するまでに要する期間ととるべきなのでしょうか、どちらでしょう。前者は神の教会は終末迄に回復すると信じ、後者は滅亡してしまうと信じる立場です。どちらが正しいのでしょう。

この質問へののヒントとして、同じダニエル書9章にはこのような記述があります。

ダニエル9:2
”すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまで(達成されるまで)の年数が七十年であることを、文書によって悟った。”

この70年とは、70週に通じるものがあります。何故なら、どちらも70という同じ数であり、またどちらもエルサレムの荒廃について述べているからです。ですから、このエレミヤの70年について見るとき、ダニエルの70週の性格を伺い知ることができるでしょう。

”荒廃の終わる迄の年数が70年”という表現をみると、70年後には、エルサレムが回復される、すなわち教会が終末には回復されるような印象を受けます。しかし、そうともいえません。何故なら、全く逆の意味に訳されている聖書もあるからです。J.N.Darby訳を始め、多くの英語の聖書はこの表現を”エルサレムの荒廃が達成されるまでの年数が七十年”と訳しているからです。すなわち、”エルサレムの荒廃が進み、それがきわみに至るため、70年という年月がわりあてられた”という意味です。

この70週の性格について他にも示唆を与える箇所があります。70週とは原文では、”70の7”という表現になっています。さて、聖書の中にはもうひとつ”70の7”という表現があります。それは、主とペテロの会話の中にあります。

マタイ8:21、22
21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍(70の7)するまでと言います。

この箇所が同じ表現になっているのは、決して偶然ではありません。この箇所を通して、ダニエルの70週とは何のために神により定められたのか、その意味を神が補足しているのです。

兄弟が罪を犯した時、それを7度までしか許さないのは、神の方法ではありません。7度を70倍するまで許すのです。これは、大きな寛容です。しかし、無限に寛容だというのではありません。はっきりとした、期間、限度が示されているのです。その限度とは、7度を70倍です。逆にいうと、それを超えても神に罪を犯し続けるなら、その寛容に終わりが来る、別のことばでいうと、裁きを覚悟しなければならないということを暗示しているのです。

ですから、どうぞ、覚えてください。神はその民に関してはっきりとした期間を定めています。その時まで、神は寛容と忍耐を尽くします。”今は恵の時、救いの日”と書かれた通りです。しかし、その期間も無制限というのではなく、定められた時には、神はその民を、そしてその都をさばくといわれているのです。そしてその期間は70の7ー70週なのです。これが、70週と書かれた期間の隠された意味なのです。

ダニエル書に書かれた70週に関することばも同じことを暗示しています。

”あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週(原文70の7)が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである”

”そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖”うために、神は70週を神の民のために割り当てました。その間に彼等が罪を悔い改め、立ち返るなら、その悔い改めは神により受け入れられるでしょう。何故なら、神は7度を70倍迄許される神だからです。

もし、彼等が途中で悔い改めるなら、この預言は途中で終わっていたはずです。即ち、50週とか、60週の預言とか。しかし、この預言は、70週迄続き、そして最後はフルに完結しています。しかもその終わりは患難時代であり、終末には神の都、エルサレムの滅亡も預言されています。

”やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。”

このみことばの意味するところはどういうことでしょう。それはすなわち、彼等が70週の期間が満了するまでに、神に罪を犯すことをやめ、立ち返るわけではないというのです。逆に神の民は70週の時が全く満ちる最後迄、悔い改めず、その結果神の寛容が尽きた時、裁かれることが暗示されているのです。
 

また”荒す”ということばを見ていく時、同じ結論に至ります。”荒す(desolator)憎むべき者”ということばが度々聖書に出てきます。一つわかることは、このことばは終末と関係していることです。そしてもうひとつのことがあります。ダニエル9:2の”エルサレムの荒廃が終わるまで(達成されるまで)の年数が七十年”ということばに含まれる荒廃(desolation)に同じことばが使われているのです。

あたかもこの70週の預言の中で荒す(desolation)ということばがキーワードであるかのようです。

このことばからも、教会の荒廃について同じことがいえます。すなわち、この70週とは神の民、神の都の荒廃が除じょに進んで、ついには極みに至る期間をさすということです。そして、荒廃のクライマックスに”荒す憎むべき者”が来るということです。これにより、神の都の荒廃は決定的になり、一つの石も他の石の上に積まれないほどの決定的な破壊がおきます。これはペテロのいう神の家ー新訳の教会への裁きの時です。”その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。”と書いてあるように、この民の荒廃、壊滅は70週の後に定められている、これがこのテキストのいわんとしていることなのです。

もちろん、”永遠の義をもたらし、至聖所に油をそそぐ”ということばも成就します。しかし、これは都ー教会全体の話ではないのです。教会の中には麦もいるし、毒麦もいるのです。そして、都全体としては、”荒廃”が定められているのです。その理由は神へのそむきがきわまるからでしょう。その時には黙示録に書いてあるようにバビロンから神の民が出てくるのです。

終末にあって、ますます主のみこころを行って行きたいと思います。

ー以上ー

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