通算No.37 イエスの時代のたとえ

テキスト: マタイ23:35ー38

”それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。”

このテキストの中に”この時代”という表現がでてきます。この時代とはイエスのおられた時代のことです。ですから、ここでイエスはエルサレムの滅亡はこの時代(世代)、すなわちイエスが実際に地上におられた世代の上におこなわれるといわれているわけです。聖書の1世代は40年ということです。そして、実際歴史を見てみると、西暦30年にイエスの十字架の死があってから40年後の西暦70年に、エルサレムはローマの軍隊により滅ぼされています。イエスの預言は文字通り成就しているわけです。

このエルサレムの滅亡は歴史的な事実ですが、しかし、これは終末の予表でもあります。何故なら、聖書には終末に関して”エルサレムが軍隊に囲まれた時、その滅亡が近いことを知りなさい”と書いてあるからです。

聖書のいうこの時代とは具体的にはイエスが生きておられた時代のことです。これは何か特別な時代、意味のある時代のようです。何故なら、”この時代”という表現が聖書の中で度々使われているからです。

マタイ12:38ー45
38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
 

世の初めから現在迄、いくつもの時代があったわけです。日本でも明治、大正、昭和と時代は色々あります。しかし、新約聖書ではことさらのように”この時代”といわれる時代を特別に扱っています。

さて、この時代とはどういう時代か、その時代を通して主が語ろうとしているたとえがあればそれは何でしょう。それを見ていきたいと思うのです。

イエスはテキストのなかで、エルサレムのさばきと関連して、この時代のことを述べています。また南の女王、ニネベの人達もこの時代のさばきと関連して述べられています。ですから、この時代とは裁きにあう時代であることを知ります。そしてもう一つのことがわかります。イエスの時代のエルサレムの滅亡が終末のエルサレムの滅亡の型であるように、イエスがおられた時の”この時代”は終末の時代(世代)の型なのです。

ですから、これらのことから、一つの事実が導かれます。すなわち、イエスの”この時代”について学ぶ時、終末の時代(世代)に関しての示唆が与えられるということです。

ここで何故”この時代”が強調されているのか、その理由がはっきりします。すなわち、イエスが度々”この時代”といわれたその理由は”この時代”の中にこそ終末のさばきの時代へのヒント、示唆が含まれているからなのです。イエスの時代について学ぶことは終末の時代に関して学ぶことなのです。

イエスはたとえを理解することについていわれましたが、是非この時代に関するたとえをも読みとり、かつ理解していきたいと思います。

冒頭のテキストではキリストがこの時代におきるエルサレムの裁きについて嘆いています。

エルサレムのさばきは終末の教会のさばきを予表していると私は思います。黙示録の中には真の教会である新エルサレムのことが記されていますが、それとともにバビロンー毒麦についても書かれています。このバビロンの記述はエゼキエル書に書かれているエルサレムの記述にそっくりです。すなわち、終末に裁かれるバビロンとは、別のことばでいうと地上のエルサレムー毒麦であることがわかります。

イエスの時代、エルサレムが裁かれ滅ぼされてしまったわけです。彼等が裁かれた最も大きな理由、それはエルサレムの人達がこの時、イエスを受け入れず、逆に殺してしまったからです。そして、おそらくイエスの時代におきたことは終末にも同じパターンで繰り返されるはずです。多くのみことばはそのことを示唆しているように見えます。それを一つづつ見ていきたいと思います。

1 エルサレム入場、群衆の歓迎
イエスはエルサレムで群衆に大歓迎されます。パリサイ人がはからずも言っているように”世(世界ーkosmos)をあげて”ヨハ12:19 群衆は彼についていきます。これは終末の大きなリバイバルをさすようにもみえます。その時には世界があげてキリストの名前をとなえるようになります。

その中で聖霊としてイエスはエルサレムー教会の型ーへ入って来られます。しかし、ほどなくして熱狂的だった群衆も聖霊としてのイエスに反対するようになります。それはおもに律法学者、パリサイ人達の働きによるものです。終末にも聖霊のはたらきに反対する聖書学者、聖書注解者、キリスト教の指導者が起きるでしょう。その人達が結局は聖霊の働きをとどめるのです。

2 迫害 
その中で迫害が起きてきます。イエスや弟子達がゲッセマネの園で刀ややりを持った人達に囲まれたように、武器を持った人達にクリスチャンが囲まれるようなことが起きるでしょう。”エルサレムが軍隊に囲まれる”と書いてあるようにです。キリスト教会の組織の根本的な破壊です。”全世界にこようとしている試練の時”がきます。患難の時が始まるのです。

3 裏切り
12使徒の一人であり、イエスの近くにいたユダがイエスを裏切ったように、神に忠実と思われた兄弟姉妹の神への裏切り、背教があるでしょう。また、”兄弟は兄弟を死に渡し”と書いてあるように、兄弟姉妹間の裏切りがあるでしょう。
 
 

4 弟子の離反
12弟子がイエスを捨てて逃げたように、弟子達、クリスチャンの離散がおこります。人間的な言い方をするなら、イエス教団はこの時、弟子達は去り、壊滅したといえるかもしれません。これは終末におきる”一つの石も他の石の上に積まれたまま残らない”といわれたことの型です。

ルカ22:31、32
” シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」”と主はいわれました。

ですから、全ての人が信仰をそのままなくすとは限りません。11人の弟子達のようにもう一度イエスと会うようになる人も多いでしょう。

5 裸で逃げる人 
マルコ14:51、52
”ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。”

黙16:15
”見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。”

マタ27:59
”ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み”
 

ある人達は、命を大事にするばかりに何もかもすてて、裸で命からがら逃げるでしょう。この亜麻布ということばはイエスの死体を包んだ亜麻布と全く同じことばが使われています。ですから、これは殉教をさすのかもしれません。自分の義、正しい信仰の告白を捨ててまで肉の命を大事にすることのないように祈りたいと思います。黙視録に書いてあるように”裸の恥をあらわ”さないようにしましょう。
 

6 ペテロの否定
マタイ26:34
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

マルコ13:35
だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。

ある弟子はペテロのようにイエスを否定してしまうかもしれません。しかし、主がまさにその時、すなわち、鶏の鳴くころに来られるかもしれないので、そのようなことにならないよう祈っていきたいと思います。

7 群衆のあざけり
この間まで、熱狂的にイエスを受け入れていた群衆が迫害の側にまわりました。イエスにより、多くの悪霊の解放、いやし、教えを受けていたイスラエルの民は今、逆にそのイエスを十字架につけてしまったのです。

これはこの時代に関してイエスのいわれたことの成就です。

マタイ12:43ー45
”43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」”

終末の時代にもひととき、家がすなわち教会が悪霊から解放されて、掃除がされ、きちんとかたづく時がきます。これは終末のリバイバルのことではないかと思います。しかし、結局は後の状態は初めより悪く、リバイバル以前より悪くなると思われます。

8 十字架の死
イエスが十字架で殺されたように、この時代にも殉教がおこります。エルサレムが裁かれた理由のうち、もっとも大きな理由はイエスを殺したことです。同じように終末のエルサレムー教会のさばきの最も大きな理由も神のしもべを殺したことです。

カヤパの前での宣言
大祭司カヤパの目の前でイエスは”今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。”と言われました。ですから、この時代に再臨があります。

10 エルサレムのさばき
これらの全てのことが起きた後、エルサレムへの裁きがありました。同じように神の家、エルサレムへのさばきがあります。”裁きは神の家から始まる”と書かれているとおりです。

このような中で、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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