通算No.33 律法の専門家に関して

テキスト: ルカ11:49ー52

”だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そ
のうちのある者を殺し、ある者を迫害する。それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザ
カリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるため

である。そうだ。私は言う。この時代はその責任を問われる。』忌まわしいものだ。律法の専門家たち。
あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」”

 
 

律法の専門家は知識のかぎを持ちさると書いてあります。だから、私たちは律法の専門家を警戒する必要があります。もし、律法の専門家には、無条件に従えとでも書いてあるなら、その通りにすべきです。
しかし、そうは書いてありません。

今の時代、律法の専門家とか律法学者とはどのような人々に相当するでしょう。律法学者の語源はgr
amma(書く、文字、本)であり、いわゆる聖書の専門家です。だから、今の聖書の神学者、注釈家
等に相当するでしょう。
 

たしかにイエスの時代の律法の専門家たちは間違っていたでしょう。しかし、かといって、私たちは今の時代に現在の”律法の専門家”に相当する人達を警戒するべきなのでしょうか。私は警戒すべきだと思います。何故なら、ロマ15:4”昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。”
と書いてあるからです。イエスの時代、”律法の専門家”が知識の鍵を取り去ったのなら、今もその可
能性はあると思った方がよいのです。これらの人を警戒するとはおそれおおいようですが、しかし、主
の警告に従うべきです。まず、吟味すべきです。吟味して、正しければ受ければ良いのです。
 

さて、彼等のどこが問題なのでしょう。彼らは律法、聖書のことばの専門家です。人々は病気に関して
は医者にきき、数学に関しては数学の先生にきくように、聖書の意味については、律法の専門家にきく
のです。もし、専門家が間違っていたら問題が生じます。医者がかぜの薬と下剤を混同するなら、患者みんなに大きな迷惑や混乱がおきます。同じように律法の専門家が間違えるとき、神の民に大きな損失と混乱が生じるのです。勿論間違えようと意図して間違える専門家は、いないのです。しかし、敵の戦略は
この部分に集中しており、結果として敵に惑わされている律法の専門家は多いのです。
 

聖書自体は変わらない神のことばであり、誰に対しても同じ言葉が書かれています。しかし、その解釈
が異なる時、聖書は全く別の本のようになり、聞く人に全く別の結果を起こすのです。
 

たとえば、異端のものみの塔がそうです。彼等は彼等独自の”新世界訳”という聖書を持っています。
これこそ聖書原典からもっとも忠実に訳された聖書ということになっています。その.聖書を読み、彼等
のテキストに沿って話しを聞いていくといつの間にか、イエスは神でなく、救いは行いによるのであ
り、輸血は罪ということを納得してしまうのです。また、カソリックもそうです。同じ聖書を読んでい
るはずなのに、信者が忠実にその聖書解釈を聞いていく時、いつのまにか教皇は無原罪、マリヤも無
原罪、れん獄はあるという間違った教えを納得してしまうのです。

私はものみの塔の人を個人的に何人か、知っています。みんな真面目な人です。また、その伝道熱心
さは、クリスチャン以上のようにさえ思えます。礼儀正しいし、悪い人達のように思えません。しか
し、彼等は異端です。彼等が一生懸命活動すれば、する程、神のみこころをそこなっています。何がま
ずいのでしょう。問題は一つです。それは彼等にとって”律法の専門家”、すなわち、みことばを解釈
する人達が間違えているので、組織全体として全く間違った組織となっているのです。

聖書の解釈を説く人、すなわち”律法の専門家”にあたる人の役目が大事だということがわかりま
す。
主が”律法の専門家”が知識の鍵を持ちさると警告された時、我々はどのように反応すべきなのでし
ょう。今はイエスの時代ではないからと無視するべきなのでしょうか。いいえ、少しは警戒すべきでは
ないでしょうか。

敵はどこを攻撃すればもっとも効果的なのかを知っています。そして、主もこの問題を前もって知って
いて預言されたのです。私たちだけが、無知であって良いとは思えません。
 

知識の鍵を持ちさるとはどういう意味なのでしょう。主のみこころは私たちが主に関する知識に富むこ
とです。

たとえば、図書館に多くの本があるとします。しかし、その図書館の入り口の鍵を持ちさってしまっ
たら、誰もそこに入ってそこの本を読むことはできません。

聖書には多くの知識がつまっています。表面的に見える意味だけでなく、神の知恵によって隠されてい
る多くのたとえ、知識、奥義があります。しかし、鍵を持ちさられ、そこに入ることを禁じられたのな
ら誰も入ることはできません。

そしてまさに”律法の専門家”はそのことをするというのです。そのようなことは現在でもありえるでしょうか。私はありえると思います。
 

鍵を持ち去るということの例はたとえば、ものみの塔の信者達がそうです。彼等は救いの鍵を持ち去ら
れており、どんなに忠実に奉仕し、集会に通っても救いに至りません。しかも恐ろしいことに彼等はそ
の鍵が持ち去られていることさえ知らないのです。同じことはローマカソリックの人達にもいえます。
 

どのようにして、鍵を持ち去るのでしょう。それは色々な方法があります。たとえばIIペテロの”私
的解釈”ということばです。これをカソリックの聖書解釈者は”公の解釈”以外の解釈は禁止というよ
うにとります。結果として、教会の伝統的な解釈ーその中には、教皇無原罪との解釈や教えもあるので
すがーそれ以外の解釈ができなくなりました。ある人が聖書を読んでいて、聖霊が正しい教えを語りか
けてもそれを発表できなくなりました。確かに彼等は知識の鍵を持ちさったのです。
 

また、ひゆやたとえの解釈に関しても、伝統的な解釈以外はだめということになりました。あえてそう
いうことをすれば、異端だということで、迫害するのです。確かに彼等は”知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げた”のです。
 
 

このテキストの聖書箇所を見ると預言者や使徒を迫害するのは、”律法の専門家”であることがわかり
ます。彼等はどのように預言者を迫害するのでしょう。それは預言者でもあるイエスを迫害したように
行うと思われます。彼等はイエスのことばじりをとらえ、質問ぜめをして、そしてあげくのはて、主を
悪霊つき、異端者として排斥したのです。

聖書のことばが真実なら、”律法の専門家”は今までもそしてこれからも使徒をそして預言者を迫害し
ていきます。
 

ですから、これらのことから次のことがいえます。主につかわされた者には、”律法の専門家”による
迫害がつきものだということです。

ですから、主のしもベとして選択をせねばならないこがあると思われます。一つは、人から悪くいわれないた
めに”律法の専門家”に反発されそうなことは全くいわないということ。または、人から悪くいわれ
ても、神のみからの栄誉を求める道を選ぶかです。

誰も進んで異端といわれたい人はいません。しかし、主が”律法の専門家”から、排斥されたのなら、
その弟子が多少のことを言われるのもしかたがないかと思われます。

さらに主のみこころを行いたいと思います。
 

ー以上ー
 

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