通算No.31 毒麦のたとえ

テキスト: マタイ13:38ー42

"畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

このたとえはいくつかのことを語っています。1つは麦と毒麦は世の終わりまで区別することができないということです。もし、カソリックが毒麦で、プロテスタントが良い麦というような区分なら、わかりやすいでしょうけれど、そのように明白に区別することができないのです。しかし、反対に世の終わりになればどれが毒麦か良い麦かはっきり区分できるようです。何故はっきりするのでしょう。

私は終末の試練と関係があるのではないかと思っています。

2人の生徒がいて、頭が良いのか悪いのかはっきりしない時は試験をします。するとはっきりとした区別がつきます。同じように、世の終には試練があり、それにより麦と毒麦の区分が否応無しにはっきりするのでしょう。試練に関して、このようなみことばがあります。

黙3:10”あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”
 
もう一つは世の終わりに毒麦は焼かれるということです。焼かれるとはきびしい表現ですが、これは文字どおりおこる可能性があると思われます。

何故でしょう。この同じマタイ13章にはもう一つ似たようなたとえがあります。良い魚と悪い魚のたとえです。そのたとえの中でも、悪い者は火で焼かれると書いてあるのです。すなわち、同じことが同じ章のなかで、2度繰り返して書かれているのです。神がこのことを強調していることがわかります。

マタイ13:47ー50
”また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

さて、ここで私は疑問に思うことがあるのです。この火で焼かれるということはこの時代、すなわち我々が生きている時代にあることなのか、それともあの世、死んだ後のことなのかということです。そのことに関してテキストには”世の終わり”in the end of this worldと書いてあります。すなわち、この時代の最後に現実に起きることについてみことばは述べているのです。
 
火で焼かれるという表現は聖書の中で何度か出てきます。

マタイ3:12
”手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」”
 
 黙17;16
”あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。”

これらのみことばは毒麦が焼かれることを表現を変えて述べていると思われます。

麦や魚はクリスチャンを象徴します。毒麦や悪い魚は麦や良い魚と一緒に住むわけですから、未信者のことではありません。この人達も教会の中にいるのです。

そして、世の終に焼かれるとは、ペテロのいう終末の”神の家ー教会”のさばきです。彼は”義人がかろうじて救われる”といいました。終末のため、身をつつしみ、主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー
 
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