通算No.30 バビロンのたとえ

テキスト:黙示録18:5ー10
5 なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
6 あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。
7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
8 それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。
9 彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。
10 彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』
 

黙示録の中に”淫婦バビロン”について記されています。このたとえが何をさすかについてみていきたいと思います。この名前は”意味の秘められた名”なので、その意味を見い出すのはとても難しいです。しかし、主にあって、隠されたことを求めていくとき開けてきます。

黙示録には例えば、キリストの花嫁である新エルサレムについての記事があります。しかし記述の量を比べて見ると、バビロンに関する記述の方がキリストの花嫁である新エルサレムに関する記述より量が多いのです。ですから、このバビロンは何をさすかを正しく理解することが重要だということがわかります。

このバビロンについては新約聖書内には黙示録を除いてほとんど記述がありません。だから、私たちはこのバビロンについて聖書的な光を求めるなら旧約聖書を見ていかなければなりません。旧約聖書においてバビロンは神の民とどのような関わり、関係を持っていたのでしょう。それを見ていきたいと思います。

神の民である、イスラエル王朝の歴史は実質的にはダビデ王から始まりました。ダビデこそ、各歴代の王の模範であり、基準でした。ダビデ、ソロモンという神の前に偉大な王によりイスラエルの国の歴史は始まっています。しかし、時が移るに連れて、イスラエル国の王と民の歩みは神から遠く離れたものとなっていきました。

王国はイスラエルとユダの2つに分裂しました。ユダは神のみこころを行っていましたが、しかしそれも時とともに背信を重ね、ついにはバビロンの国へと民族ごと、移されてしまったのです。

これが有名なバビロン捕囚です。このバビロン捕囚ということが神の民であるイスラエルの国の歴史の中で何か特別なことであることをとらえなければなりません。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルを始めとする多くの預言者がこのバビロン捕囚の前後に現われ、そして預言しているからです。

さて、このバビロン捕囚は信仰的にどういう意味があるのでしょう。

一つはこういうことです。この捕囚の時にダビデ以来、代々続いていたイスラエル(ユダ)の王国は終わりを告げます。イスラエルの王国にとって最後の時、崩壊の時、それがバビロンに捕囚されたときなのです。ですから、バビロン捕囚はある意味で神の民の終わりを示しているといえるのではないでしょうか。

さて次に、この捕囚は彼等の神から頂く財産の相続ということを考える時、重大な意味のあることなのです。

イスラエルの民が荒野を歩いてカナンの地をめざし占領した時、神はこの地を約束の地として彼等に与えました。

そして、その地は彼等にとって、神の与えた約束の地、先祖のゆずりの地となりました。その地を彼等は代々受け継いできたのです。これは何を意味しているでしょう。これは信仰的にみくにを受けつぐことを象徴的に表わしています。以下のみ言をみて下さい。

ヘブル11:8、ー10
”信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。”

アブラハムの住んだ地はカナンの地です。彼はそこを約束の地として住みましたが、しかし、これは型であり、彼が実際に受ける相続地は天の都であり、それは新エルサレムのことです。

イスラエルのナボテがイゼベルにより殺された時、彼は先祖のゆづりの地を手放すことを拒否して死んでいったのです。これは天のみくにの相続を放棄することを拒否して死んでいった殉教者の型と思われます。

ですから、バビロンへ捕囚として連れていかれるということの深い意味がわかります。イスラエルの地、約束の地から移されてしまった彼等は神の民として生まれてきたのに、み国、天の都に入るという神の約束から離されてしまった者たちの型なのです。

また、カナンの地は”乳と密の流れる地”なので、そこから、移されたということは、乳すなわち神のみ言から離されてしまった、みことばのききんに会うということをも暗示しているように思えます。すなわち、彼等は聖書に預言されている終末にみことばのききんに会う人達の型でもあります。

さてその後の時代、もう一種類の神の民がいました。彼等は捕囚から帰ってきた民です。彼等は門が焼けていた、荒れたエルサレムを建て直し、新しいエルサレムを建設した人達です。彼等は先祖たちの約束の地に戻ってきた人達です。

ですから、覚えてください。この時代には神の民には2種類の人達がいたのです。1種類の人達はバビロンへ捕囚となった人達です。これらの人達に関してはその名前も部族も人数も聖書には記されていません。

もう1種類の民は捕囚から帰って新エルサレムを建てた人達です。彼等は約束の地に戻り、またその部族も人数も記載されている人達です。彼等は、みくにを受け継ぎ、命の書に名前を連ねる人達の型です。また、エズラ記の中でバビロンから、エルサレムの神の宮の器が戻ってきます。これらも種類毎に数が数えられ、記録されています。これらはバビロンから帰る神の器ー働き人の予表と思われます。

さて、黙示録を見てみます。ここにも2種類の民をみます。
1種類の民は淫婦バビロンです。そこに住む人の数は数えられず、命の書にも名前は記されません。

もう1種類の人がいます。それは神の花嫁である新エルサレムです。その寸法は計られ、そこに属する人達は命の書に名前を記されています。

だから私はこのバビロンは終末における天の相続から捕え移された人々、あるべき道から外れた神の民をあらわすと思っています。具体的にいうと教会における毒麦です。
 

マタイ13章に書いてあるように終末にはそれまでは明確に区別できなかった麦と毒麦との区分がはっきり行われるようになります。私は麦は黙示録における新エルサレムをさし、、毒麦はバビロンをさすと思っています。このような見方は一般的ではないかもしれません。しかし、聖書にはこの事実を暗示している事実がいくつもあります。

1番目に麦と毒麦が対照的であるように、このバビロンと新エルサレムが対象的に書かれていることです。

バビロンは淫婦であり、新エルサレムは花嫁です。どちらも、都として描かれています。そして、どちらも女性です。あたかも一人の男性に対して、一人は忠実を尽くし、もう一人は不実であったことを示すかのように対象的に描かれています。

黙18:7
”彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。”

この女を記述するのに、好色にふける、不品行、淫婦等、いわゆる異性間の関係に関することばが多く使われています。それはこの女が本来は夫のある者であった、それなのにその夫に忠誠をつくさなかった、そのことを暗示しているかのようです。夫とは誰か、キリストのことです。やもめではないからとの言葉にもそれがあらわれています。しかし、本来クリスチャンはこの世ではやもめなのです。

2番目に聖書では、毒麦は世の終わりに焼かれると書いてあるからです。これは世の終わりに焼かれる淫婦とまさに同じ表現です。毒麦も良い麦も同じように育ちます。世のおわりまではこの2種類の麦を区別することは不可能であるとマタイ伝に書いてあります。これは、この2種類の麦が同じ教会で同じように育つことを暗示しています。

黙18:8
”それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。”

世の終わりまで、良い麦も毒麦も同じように育ちます。それまでは区別することが難しいからです。しかし、世の終わりになった時、良い麦と毒麦は明確に区分され、毒麦は焼かれます。同じように、この淫婦バビロンも焼かれます。

3番目にバビロンに関する預言の中に神の民をさす預言があるからです。麦も毒麦もマタイ13章の神の国のたとえに出てきており、今の神の民、教会のクリスチャンを意味します。

この淫婦バビロンに関する黙示録の多くの聖句は旧約聖書の引用です。その多くの聖句は旧約聖書のバビロン国に関する預言の引用、そしてエルサレムに関する預言の引用です。

だから、この淫婦バビロンは旧約時代のバビロン国、そしてエルサレムと関係があるのです。
バビロン国と関係があるのは納得ができます。問題はエルサレムです。エルサレムはイスラエルの国の首都であり、そしてそれは今の時代、霊的には教会をさします。

何故なら、イスラエルの歴史は教会の歴史の型といえるからです。イスラエルの国の歴史には神の民のバビロン捕囚と新エルサレム建設がありました。教会の歴史にも教会のバビロン捕囚と新エルサレムがあると考えるのは理屈にかなってはいないでしょうか。

イスラエルと教会について聖書はことさらのようにその類似性を記しています。イスラエルに12部族があり、教会に12使徒があります。また、イスラエルも教会も葡萄の木として示されています。また、どちらもアブラハムの末です。他にも多くの類似があります。神はある意図をもってそのようにこの2者を規定しています。

それは教会の未来に関する預言を悟らせるためです。聖書の預言をみる時、イスラエルの未来に関して多くの預言があるのがわかります。それに反して、教会に関する預言はあまり多くないことにきづきます。何故でしょう。その理由の1つはイスラエルに関する預言はイスラエルの上に成就すると共に霊的イスラエルー教会の上にも成就するからです。すなわちイスラエルの歴史は教会の歴史の型なのです。

4番目にここに毒麦が焼かれる理由が書いてあるからです。聖書の中では種はみことばを象徴し、麦はそれにより生えるクリスチャンを象徴します。だから毒麦といえどもある程度は教会の中で正しいクリスチャンと同じように信仰生活を送っていたはずです。実際、マタイ伝には成長する、収穫する時までは良い麦と毒麦を区別することは困難であると述べてあります。しかし、逆に収穫の時には明確に区別できるということになります。どうして区別できるのでしょう。おそらくこの2者をはっきりと区分するようなできごとが教会内におきるのでしょう。それは、何でしょう。仮にも教会に育った麦をどうして焼かなければならないのでしょう。

それは他の終末に関するみことばと照らし合わせた時わかります。すなわち、毒麦がこの世につくからです。そして、獣と迎合し神への信仰から離れ、背教するからです。獣とはすなわち、この女の乗っている7つの頭と10の角を持つ獣です。そしてキリストを捨て、反キリストを拝するようになります。そして、もう一つのことがあります。彼女によって聖徒達の血が流されるようになります。すなわち良い麦への迫害、裏切りです。この時、麦と毒麦との間には明確な区別がつき、毒麦が火で焼かれるはっきりとした理由ができます。ですから、わかりやすくいうなら、毒麦は裏切るユダのような迫害者、良い麦は迫害され、殉教していくクリスチャンです。
 

5番目にこのバビロンと聖徒とが関係があることをみ言が暗示しているからです。麦と毒麦は同じ教会の中に育つので当然関係があります。

黙18:4
”それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。”
”この女から離れなさい”とのことばは原文では”この女から出てきなさい”となっています。逆にいえば、わが民ー聖徒はこの女の中に住んでいたことがわかります。麦と毒麦が世の終まで区分ができないように、この2つの民はその時まで、一緒に住み、区分できません。しかし、世の終わりの時に明確に区別されます。

普通の時代には我々クリスチャンは教会を出るべきではありません。しかし、終末は特殊な状況です。教会全体が背教となり、反キリストを拝するようになった時、その時私たちは”この女”から出るように勧められているのです。

私たちは是非、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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