通算No.29 兄弟に裏切られることのたとえ

テキスト:マタイ10:21
”兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。”

マルコ13:12、13
”また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。”

ルカ21:16、17
”しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。”

終末に関してのみことばを見ていく時、終のときに、私たちが自分の家族により裏切られることが述べてあります。これらのみことばについてはどのように受け取るべきでしょうか。これらは、何かをたとえているのでしょうか。それともそのままとるべきなのでしょうか。それを見ていきたいと思います。

これらのみことばを読んでいく時一つ気がつくことがわかります。まず、兄弟ということばが最初に来ていることです。  ”兄弟は兄弟を死に渡し”

教会はいざ知らず、私たちが普通、家族関係を考えるとき兄弟の関係を一番には持ってきません。それは一般には一番大事な関係ではないのです。結婚しているなら、夫婦が最初。子供がいるなら、親子の関係が先です。大人になって所帯でも持てば、そもそも自分の兄弟とは別所帯になるだろうし、疎遠になったりします。裏切るといっても、そもそも年に一度顔が会うか会わないか、そんな関係になります。日本だからそうなのでしょうか。他の国も概ね大差はないのではないでしょうか。

しかし、ここではあたかも兄弟関係に力点があるように、”兄弟が兄弟を死に渡す、裏切る”
ことが最初に述べられています。

また、ここには夫婦の関係については何も述べていません。夫が妻を裏切るというようなことは書いてないのです。夫婦はもっとも強いきずなだから裏切らないのかも知れません。しかし、両親が子を裏切るというのですから、多少は夫婦間でも裏切りがあるのではと思うのですが、それは全く書いていないのです。

私はこれらのみことばに関してこう思います。終末に自分の実際の肉親から裏切られるということもきっと多少はあるでしょう。しかしここで書かれているのは、主としてたとえではないかと思うのです。

もし、たとえだとしたら何をたとえているのでしょう。すぐに思いつくことですが、これは終末における教会の兄弟姉妹間の裏切りについて述べていると思われます。親子とはクリスチャンの信仰の親子関係について述べているのでしょう。パウロはこう言っています。

Iコリ4:15
”たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。”

夫婦関係について述べていないのはクリスチャンの間には兄弟姉妹、信仰の親子関係といういいかたはあっても、信仰の夫婦関係というものはないからです。強いていえば、我々クリスチャンはキリストの花嫁ですが、キリストは我々を裏切りません。

終末における教会の兄弟姉妹の裏切りなんて想像できないという人もいるかもしれません。しかしこのようなみことばがあります。

IIテサ2:3
”だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。”

背教とはクリスチャンが信仰を捨てることです。それは困難な時代になり、不法の人、すなわち滅びの子が聖なるところ、すなわち教会に立ち、クリスチャンの迫害が始まるからです。

共産主義国家の迫害下でも同じ信仰の兄弟による密告があったということです。そのようなことが大きな規模で教会内で起きるのでしょう。

みことばをよく読むならこれらのことはたしかに暗示されています。たとえば、テキストの”兄弟により死に渡される、裏切られる”ということばと同じ表現が新約聖書に出てきます。すなわち、イエスがユダにより裏切られる時のみことばです。

マタ26:23”イエスは答えていわれた’わたしと一緒に鉢に手を浸したものが、私を裏切るのです。’”

ですから、終末にはユダによる裏切りと似たようなできごとが教会の中で数多く起きるのではないかと思えます。

私たちは終末においても主のみこころを行えるように主にあって備えていきたいと思います。

ー以上ー

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