通算No.28 からし種とパン種のたとえ

テキスト:テキスト: マタイ13:31ー32
”イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」”

このマタイ13章の2つのたとえを理解していきたいと思います。

これらの2つのたとえは天のみくにー教会のあゆみについて書いてあります。教会がどのようなものから始まり、どのようなものになるのかについて書いてあります。

このたとえをどう解釈するかはその人が教会のあゆみをどうとらえるかによってことなります。もっと具体的に言うと、その人が教会が世の終りにどうなるのかと思っているのかにより解釈が異なるのです。すなわち、教会は終末には良いものになっていると思う人と、そうではなく悪いもの、さばきの対象になると思う人ではこれらのたとえについて解釈が異なってくるのです。
 

このからし種とパン種のたとえについて多くの注解書はこれを教会が発展、成長することのたとえだと書いてあります。

しかしJ.N.Darby, W.ニー兄弟らの見解は異なります。彼等はそうではなくて、これらのたとえは教会の中に罪が増え広がる、教会が当初のかたちから変質してしまう、それをたとえていると読みとっているのです。

からし種のたとえ

からし種とは小さな種です。しかしこれは信仰を意味します。ルカ17:6のみことばの通りです。
”しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。”

だから、小さなからし種は、教会が当初は小さなもの、しかし真の信仰を持った集まりとして始まったことをさすのでしょう。

しかし、成長していくにつれてこのからし種にある変化がおこります。

大きくなるにつれてそれは大きな”木”になったのです。これは何か特別な変化を示します。もし、からし種が野菜のまま大きくなったのなら、特に問題は感じられません。そこには本質的な変化はないからです。

しかし、野菜と木は全く別の種に属するものです。神は創造の時、植物もそれぞれ種類に従って区分して作られました。木と野菜とは別の種です。そして、からし種はその種の区分を超えたのです。これは大げさないいかたをすると何か異常なことです。

からし種の本来の種の区分は野菜です。そして、それは小さいけれど純粋な信仰を象徴するものです。だから、もしからし種が野菜のまま大きくなったのなら、そこには質的には変化はなく、ただ量的に増えたことを意味します。ただ祝福だけがあるといえるでしょう。

しかし、別の種に変化したということは当初の純粋な信仰も変化したことを暗示していないでしょうか。

だから、これは教会が全く違う種類のものへと変化したことをさすのです。
イスラエルの王朝の歴史を見てもわかるように、神の民の歩みは当初の純粋なものから、時とともに変わっていくことがありえます。

そして鳥がその木に宿るようになります。鳥がとまるといっても良い意味をあらわすとはかぎりません。同じ章にたねまきのたとえがあります。そのたとえの中にも同じ鳥が出てきます。この鳥はみことばの種を奪い取ってしまう鳥です。敵の働きをあらわすのです。また黙示録には鳥に関してこのような表現をしています。

黙18:2
”大バビロンは倒れた。そして悪霊のすまい、あらゆる汚れた霊どものそうくつ、あらゆる汚れた憎むべき鳥どものそうくつとなった。”

ですから、このたとえの意味していることはこのようなものです。教会は当初小さな、しかし純粋な信仰を持つ集まりとして始まった。しかし、成長して、規模が大きくなるにつれて、本質的な変化をなすようになり、信仰ーからし種とは別のものに変化してしまった。そしてその上に鳥ー悪霊をさすかーさえ宿すものになってしまった。

パン種のたとえ

もう一つのたとえ、パン種のたとえについてみていきます。

聖書の中でパン種は一貫して罪を象徴しています。

Iコリ5:8
”ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。”

カラ5:9
”わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。”

また、聖餐式でもパン種のないパンを食べます。私たちがパン種のない者、罪のない者となることを示すためにそうするのです。アブラハムにしてもイサクにしてもヤコブにしてもまた他の旧約の聖徒にしても彼等がパンを食べたり、ささげる時は必ず、パン種のないパンを食べたり、ささげています。旧約聖書の中では例外なくパン種のないパンについて語っているのです。

旧約聖書に一箇所だけ、例外的にパン種のあるパンを食べることについて書いてある箇所があります。しかし、それは神が頑固な民への皮肉として書いてあるものです。いわば反語的な表現なのです。

アモス4:4、5
”ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。神である主の御告げ。”
 

新訳約聖書でもこの原則は同じです。パン種については、パリサイのパン種、サドカイ人のパン種というように誤った教え、罪と関連して語られています。決してパン種をいれることをすすめたり、良いことだとは決して述べていません。

ですから、パン種が広がるという記述を読んで何か良いこと、成長について考える人は聖書の考え方と全く違ったことを主張しているのです。

このパン種のたとえを教会の成長、発展を示すと解釈する人達は神の聖書における原則を無視して人間的な考えでものごとを見ています。

他の全ての箇所で、パン種は罪、間違った教えをさすのに、どうしてこの箇所でだけ、同じパン種が良いことをさすといえるのでしょうか。聖書のなかで、同じパン種がある時は罪をさし、ある時は良いことをさすというのなら、神は全く無原則の神だということになります。

ですから、私たちの理性、心情では認め難いことですが、この箇所は教会にパン種が、すなわち罪がいき渡ることをさします。それがどのような罪、パン種なのかは特定されていません。しかし教会は大きくなるが、罪が行き渡る、そのことについてこのたとえは述べているのです。

同じマタイ13章には他にもいくつかたとえが書かれていますが、その主旨、結論はからし種やパン種のたとえと似たようなものになっています。

たねまきのたとえは同じ種が4種類の異なった地に落ち、結果として実を結んだのは1種類の種だったというたとえです。要するに実を結ばない地が3種類もあるということです。

毒麦のたとえも畑に育つのは良い麦ばかりでなく毒麦もはえることをさしています。

魚のたとえもそうです。良い魚ばかリでなく、悪い魚もとれるということです。

麦や魚はクリスチャンをさします。ですから、これは教会に関する警告なのです。

神がこれらのたとえでいわれていることはこういうことです。教会の始まりは確かに純粋なものよいものであったが、時が過ぎ、成長するにつれ、教会の中に罪も増え、毒麦も生え、悪い魚も増えるということです。世の終りの時には、毒麦が焼かれ、区分がありますが、それまでは教会が良い麦も悪い麦も、信仰も不信仰も、また聖さも罪も混在した状態で続くということです。

そして、毒麦や魚のたとえでは世の終りには、毒麦が火で焼かれると書いてあります。これは終末における教会へのさばきを暗示しているようです。ペテロが書いているように、さばきは”神の家から始まる”からです。

我々はこれらの状況の中で主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上 ー

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