通算No.7 たとえで語るイエス


テキスト:マルコ4章33〜34節
”イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話 された。たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たち にだけは、すべてのことを解き明かされた。”


たとえの理解は聞く力に応じる

 ”聞く力に応じて”と書かれています。神は聖書の中でたとえに より、多くのことを語っています。誰に対しても語っているのですが、しかしそ れはその人の聞く力に応じています。同じ新聞をとっても子供はマンガ欄しか見 ません。しかし大人は複雑な記事も見ます。聞く力はことなるのです。神はたと えにより私たちに語りますが、人によりそれを読み取る能力は異なるのです。
 同じ聖書を読んでも初信者なら”ダビデはキリストの王としての 型−たとえだ”というようなやさしいたとえしか読みとれないかもしれません。 反対に訓練を受けている人はもっと多くのことを読み取ります。同じ聖書を通 し、その人の聞く力に応じてイエスは語られるのです。

たとえを正しく読み取ること

 またイエスは”たとえによらないで話されることはなかった”こ とが書かれています。これは少しびっくりするような記事です。このみことばを 文字どおりとるなら、イエスが福音書で語られたことばはみなたとえだというの です。イエスは福音書の中でたねまきのたとえのようないくつかのいわゆるたと えばなしをしています。しかし、それらに限定されず、イエスが弟子達と話した ことばも、またパリサイ人とのことばも、みなこれらのことばはたとえだという のです。たとえである以上、それらをたとえとして理解することが大事です。で すから、私たちは福音書のイエスの言葉に注意を払い、何をたとえているのか、 正しく読み取ることが大事です。
 この”イエスは..たとえによらないで話されることはなかっ た。”という節をチェーンバイブルは”誇張的表現”であると解説しています。 これは人間的な解釈です。もし聖書に”イエスは時々たとえを話された”と書い てあるなら、そのように解釈すべきです。しかし聖書が”たとえによらないで話 されることはなかった。”と書いてあるなら、とりあえずその通りに受け取るべ きなのです。私たちの理性は納得できないかもしれませんが、しかし、人の理性 にみことばを合わせるべきではありません。反対に私たちの理性をみことばに合 わせていくべきです。エバがいのちの木に関する神のことばに自分の意見、考え をつけ加えた時、サタンに惑わされてしまったのですから。

人間的な解釈という「パン種」

 これは小さなことのようですが、そうではありません。イエスが パリサイ人、律法学者のパン種に気をつけなさい。といったのは、まさにこのよ うなことについて警告していわれたのです。パン種はパン全体に広がります。同 じように律法学者、パリサイ人の教えは神の民であるユダヤ人全体に広がったの です。今のキリスト教会で律法学者、パリサイ人にあたる人達が間違った教え、 人間的な教えをするならそれはキリスト教会全体に及ぶのです。
 律法学者、パリサイ人の間違いとは何でしょう。彼等は聖書の代 わりに仏典やコーランをもってきたわけではありません。彼等は聖書を説きあか していました。しかし、多くの人間的な教え、習慣をそれに付け加えたのです。 たとえば、食事の前に水で手を洗うこととか。それらは一見無害で聖書的である かのようですが、結果として神のみことばを無効にしたり、阻害したりしていま す。”たとえによらないで話されることはなかった。”ということばに人間的な 解釈を加えるとき、それは神の助けというより、神のことばを無効にしてしまう のです。
 神のことばに人間的な理解、解説をすべきではありません。何故 なら、ひとつの特徴として私たちの理性に反するようなことば、書き間違えたよ うにさえみえるみことばにこそ大事な真理が含まれていることがあるからです。 たとえば、旧約聖書に”おとめがみごもって男の子をうむ”という預言がありま す。これも旧約の人達には理解に苦しむ言葉でしょうが、しかしこのことばは文 字どおり成就したのです。もし旧約の聖書解説者が人間的な解釈を加えるなら間 違ってしまったことでしょう。
 ただしくたとえを理解して主のはたらきをすすめていきたいと思 います。

−以上−


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