通算No.6 隠されたみことば


テキスト:マルコ4章21〜23節
”また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでし ょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われる ためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある 者は聞きなさい。」”


あかりと燭台の意味

 このあかりとは何をさすのか、いろいろと解釈があるようです。 福音ととる解釈もあるようです。この燭台は教会のことでしょう。このあかりと は神のみことばともとれます。何故なら「あなたのみことばは私の足のともし び、わたしの道の光です。」と詩編にあるからです。またこのマルコ4章は一貫 して神のみことば、たとえについて書かれているので、みことばととることは妥 当と思われます。
 もしみことばを指すとして、何故主はあかりは燭台の上に置くべ きであり、寝台の下に置くためではないなどと言われたのでしょう。現実の世界 では、せっかくあかりをつけてベッドの下において暗くする人はいません。しか し、霊の世界では、みことばの持っている光を燭台−教会の上にのせて輝かせ ず、むしろ、寝台の下に隠す、正しいみことばの光、意図している真の意味を隠 すことが多いということを警告して語っているように思われます。
 このようなことはありえるべきではありません。しかしながら、 ユダヤ人達の間ではこのことばが成就しています。即ち、彼等は安息日毎に語ら れる預言者のことばを理解せず、キリストを十字架につけてしまったのです。 (使13:27)少なくともこのエルサレムのユダヤ人の間ではみことばのあか りは正しく輝かなかったのです。神のことばに問題があったわけではありませ ん。神のことばは正しく、神のことばは輝いていたのです。しかし、その正しい 光は正しく理解されず、すなわち隠されているたとえはあらわされず、あたかも 寝台の下に置かれるように隠され、暗くなっていたのです。

隠れていることは明らかになるのがみこころ

 ”隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されてい るのは、明らかにされるためです”の聖句もみことばのたとえについて語られて いると理解できます。何故なら、この節の前後はたとえについて書かれており、 文の流れ、トピックはたとえについて語られているからです。この節が語ってい ることはこのような意味です。すなわち聖書のたとえ、真に語ろうとしているこ とは、隠されており、おおいが隠されているということです。
 みことばがたとえになっているので、普通に読むとすっと読みす ごしてしまうし、その前を行きすぎてしまう。しかしそれらのたとえもむやみに 隠されているのではなく、表わされることを前提として、隠されているというこ とをいっているのです。これを表わし、明らかにするのは、主の弟子達、即ち私 たちの責任です。
 このみことばがいわんとしていることは、例えばこういうことで しょうか。私の団地でもよく子供達がかくれんぼをします。かくれんぼをする子 供達は確かに隠れているのですが、しかし見つけられることを前提として隠れて いるのです。永久に鬼に会わないように逃げようと思っているのではなく、きっ と鬼に見つかると思いながら、そのスリルを楽しんでいるのです。同じように神 のみことばも世の終まで、意味が理解されず、解き放たれず、隠されたままでい ることは、神のみこころではありません。神は我々がこれらの隠れたたとえを正 しく理解し、明らかにされること、みことばの正しい光があらわれ、教会が益を 受けることを望んでいるのです。

黙示録−たとえの総合の書

”あらわれる(reveal)”ということばから思い起こされる ことは”黙示録”(revelation)です。この書も、ただ単に、難しい 理解できないことばを聖書の後ろに載せているわけではありません。神のみここ ろはこの書が明らかになり、その意味が理解されることです。
 黙示録のように複雑、難解な書が聖書の最後の書であることにつ いて、ある人達は不思議に思います。しかし、聖書の一面がたとえの書、比喩の 書、啓示の書であると理解するとき、これは不思議ではないでしょう。人間的な いいかたですが、黙示録は学期末試験のようなものでしょうか。すなわち、その 人が聖書のたとえを理解しているかどうか、その訓練がされているかどうかは黙 示録を読む態度で、はっきりわかります。
 よく試験になると”エーこんな問題みたこともない””何をいっ ているのか。いつもちゃんと授業を受けていればこんな問題はできるはずだぞ 。”などという会話が先生と生徒の間で交わされます。聖書がたとえの書である ことを認識し、たとえを理解する訓練をしている時、難解な黙示録も聖書の中で 特別な書ではなくなります。この書こそたとえの書である聖書の本質をもっとも あらわした書といえます。
 黙示録は各聖書箇所のたとえのまとめともいえます。何故なら、 黙示録の中には創世記、出エジプト記、歴代誌、エゼキエル書、ダニエル書等、 あらゆる聖書箇所からの引用があるからです。それで、このようないいかたがで きるかもしれません。すなわち、黙示録のみが難解なたとえ、比喩に満ちている のではない。実は聖書の各書はそれぞれ、外から見える面とともに、その内側に 秘めたたとえ、比喩がある。読んでそのままわかる部分とともにたとえが含まれ ているということです。それをそれぞれ理解していく時、結論として黙示録もわ かってきます。しかしたとえを理解する訓練がされていないなら難解です。
 すなわち、各書におけるたとえを主にあって読みとっている人に は黙示録のたとえ、啓示もそれらの延長線上にあるのです。そのような訳で、黙 示録はその人が聖書のたとえを理解する訓練ができているかいないかを問う、試 金石のようなものといえるでしょう。
 神は確かに未来のできごとを黙示録の中で示されました。そして その正確な理解は、たとえを読み取ることを学んだ主の弟子達によりなされるの です。

弟子達のたとえの理解

イエスは弟子達が聖書のたとえを理解することを望みましたが、さ て聖書のたとえに関する弟子達の理解はどうだったのでしょう。新約聖書を読む とき、弟子達が多くの旧約聖書のたとえを理解し、読みとっていることをみま す。
 例えば、ヘブル書の記者は創世記を読み、そこに記されているメ ルキゼデクは王なる祭司、キリストの型であることを読みとっています。またパ ウロはアブラハムの記事を読み、そこに記されている2人の子、イサクとイシマ エルは自由の子とどれいの子をさすことを読み取っています。
 聖書は隠された書ですが、しかしそれらのたとえを理解する弟子 達により隠されたみことばの光が表わされているのです。
 またヘブル書の記者は乳ばかり飲まず、堅い食物に進むよう勧め ています。乳とはキリストの教えの初歩であり、死んだ行いからの回心、神への 信仰等です。これらの基礎の教理も大切ですが、しかしここにとどまらず、堅い 食物を食するよう勧めているのです。堅い食物とは何か、それはたとえば、この ヘブル書の中でいわれるメルキゼデクの話のようなものです。これを記者は堅い 食物の例としてあげているのです。何故そう読みとれるかというと、ヘブル書の 中で、この堅い食物ということばがメルキゼデクに関する話の中で、出てくるか らです。
 堅い食物とは即ちたとえを理解することです。このヘブル書の記 者は創世記の中のアブラハムとメルキゼデクの記事の中から、ここに隠された光 があることを読みとったのです。
 多くのユダヤ人がこのアブラハムとメルキゼデクの記事を読んだ ことでしょう。だが、ここに王なる祭司であるキリストの啓示があることを誰一 人知りませんでした。しかし、彼はここに隠されているたとえを理解し、隠され ているものをあらわしたのです。彼は聖書の読み込みにより、このメルキデゼグ に父や母がなく、系図がないことを読みました。そこから聖書がメルキゼデクを いわば神のような存在として記していることを読みとり、またサレムの王−平和 の王という言葉の意味から、またアブラハムが1/10を彼に与えたことから、 レビ以上の祭司として聖書が語ろうとしていることを読みとったのです。
 神は創世記が初めて記された時、この箇所をそのように書き、そ して長い間、この記事のたとえは隠され、おおわれていたのですが、この弟子、 ヘブル書の記者により明らかにされたのです。そして彼がこのように聖書のたと えを理解したことにより、教会は今に至るまで、大きな祝福を受けたのです。
 たとえについて理解するというと、人によっては”私的解釈につ ながるからいけない”という意見もあります。私的解釈ということばの原意は” それ自身で解釈する”という意味であり、たとえの理解をするなという意見には つながらない思います。
 むしろヘブル書の記者は”あなたがたは堅い食物ではなく、乳を 必要とするようになっています”(ヘブル5:12)と、まだ初歩の教えに甘ん じている信者を叱り、逆に堅い食物−たとえの理解にはいることを勧めていま す。
 またヘブル書の記者は”この方につい て、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くな っているため、説き明かすことが困難です”(ヘブル5:11)と言っ ています。
 このヘブル書の記者がいいたくてもいえなかった”話すべきたく さんのこと”は今でも聖書の中に隠れ、うずもれています。しかし、私たちが正 しく堅い食物をこなし、聖書のたとえを読み取るなら、これらの隠されたことも 開かれてくるのです。
 ただしくたとえを理解して主のはたらきをすすめていきたいと思 います。

−以上−


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