再び十字架につけられる主 by エレミヤ
その日、背教の教会において、聖霊は、再び十字架につけられる!
キリストに従い、同性愛に反対して逮捕されるRepent Americaの
メンバー:11人のメンバーは誰も最大47年の懲役、9万ドルの罰金が
求刑されている
本日は、「再び十字架につけられる主」として、このことを見ていきたいと思います。
終末の日を預言する黙示録には、終末において主が再度十字架につけられる日が来ることが預言されています。以下の通りです。
黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
背教の教会はソドム、エジプト化する
このことばを考えてみたいと思います。まず、はっきり知らなければ、いけないことがあります。それは、
主イエスが2000年前地上で、十字架につけられたことは、事実ですが、それ以降、肉体をもった
キリストが十字架につけられる、ということは歴史上、起きていない、という事実です。
主は復活して昇天されたのですが、その主が再度、終末の日に地上に降りてきて、十字架にかかる、などということは聖書も語っていないし、事実起きてはいない、ということは、はっきりさせねばなりません。
ですので、私たちはこのことばを理解するのに、肉体を持たれた主が十字架につけられる、ということを考えるべきでなく、それ以外の可能性を考えるべきなのです。
そしてこのことに関連して、それ以外の可能性を考えるとき、以下のことばが思い起こされます。
<もう一人の助け主>
黙示録 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
聖霊はもう一人の助けぬし
ここで主は、もう一人の助け主である聖霊について語られています。そして、教会時代とは、
肉体を持たれた主イエスの時代というより、もう一人の助け主である聖霊の時代なのです。したがって、教会時代の終わり、
終末の日に再度十字架につけられる主とは、肉体を持たれたイエスというより、
主の霊である聖霊にかかわることがらであると 理解できます。
<聖霊の型としてのイエスの生涯>
主はこのヨハネの福音書の中で、助け主(イエスキリスト)及びもう一人の助け主(聖霊)という表現を通して、
ご自分と聖霊の働きを対比的に語っています。確かにこれらの2者を聖書は対比的に記載しているのです。
したがってこのようなことが考えられます。
福音書に記された主イエスの生涯、それは、確かに歴史的に実際に起きた主イエスの生涯の正確な記録なのですが、それのみにとどまらず、それは、もう
一人の助け主である聖霊の未来における働きや歴史を預言したものである、そうも理解できる、と
思われるのです。
肉体を持たれた助け主であるイエスは、盲人の目を開け、耳しいの耳を開き、また、足なえを歩けるように癒しました。
4000人の給食:主は助けぬし
同じようにもう一人の助け主である聖霊は教会時代において、我々の霊の目を開き、耳を開き、信仰の歩みのないものをいやして歩けるようにしてくださるのです。
ですので、主イエスが福音書で行われた助け主としてのいやしや、人々を助けた記述はそのまま、未来に関する預言でもあり、
もう一人の助け主である聖霊が教会時代においてどのようにして、我々を助け、救い、力づけてくださるかを前もって語り、預言した記述として理解できるのです。
さらにもう一つのことがあります。それは、福音書に記されたイエスの生涯の歴史、それは、
ナザレのイエスの生涯を正確に記したものですが、しかし、それにとどまらず、
それは、また、将来の教会時代において、聖霊が受ける扱い、歩み、歴史を預言したものでもある、そう理解できるのです。
考えてみましょう。
助けぬしであるイエスの生涯はどのようなものだったでしょうか?
イエスの働きは群集の熱狂的な歓迎から始まっています。
4000人の給食、5000人の給食の話から伺えるように大勢の群集が群れをなして、
イエスの話を聞きに群がり、その中でイエスはいわば、カリスマ的な人気を博していたのです。
しかし、働きの後半に状況は変化し、律法学者、パリサイ人に扇動された群衆はその態度を一変させ、
イエスをいかさま師であるペテン師であるとして、熱狂的に非難するようになったのです。
十字架につけろ、と熱狂的に叫ぶ群衆の非難の中で、イエスは何の罪も無いのに、十字架につけられ、エルサレムで命を失ったのです。彼は、罪人、犯罪人の一人に数えられ、汚名の中で、すべての評判を失って命を絶たれたのです。
主は犯罪人として十字架につけられた
さて、助けぬしであるイエスの生涯はもう一人の助けぬしである聖霊の生涯、歩み、
教会時代における歴史を暗示し、預言するものと理解できます。この2者の歩みはシンクロナイズされており、再現するのです。
ペンテコステの日に下ったもう一人の助けぬしである聖霊の霊は当初、初代教会を初めとした
教会の中で、大歓迎され、その働きを始めました。
もう一人の助けぬしである聖霊こそ、教会の働きのもといであり、その助けの中で、
教会時代は進んできました。祝福の中を歩んできたのです。しかし、教会時代も終わりに近い、ここ1−2世紀の間、少しづつ教会の雰囲気、状況が変わってきました。
悪霊の働きが教会の中に入ってきたのです。
現在ペンテコステ系の教会でブームになっている、聖霊の第3の波、トロント、ペンサコーラのリバイバルなどは、明らかに神の霊というより、悪霊のリバイバルなのです。
おかしなリバイバル運動を通して悪霊が教会に入ってくる
<悪霊を縛る>
そのムーブメントの中で、しきりに「悪霊をしばる」ということがいわれています。
このことは、私の考えが杞憂でないのなら、いずれ、悪い方向へ行くだろうと思われます。
何をいっているのかというと、今このリバイバルに浮かれて、悪霊をしばっている(つもりの)人々は、いずれ、悪霊をしばる、といいながら、他でもない聖霊をしばる働きに入っていくように思われるのです。
聖書は「強い人を縛る」ことに関して以下の様に述べています。
マタイ 12:29 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。
強い人が守っている家に押し入るにはまず、強い人を縛ることに関して述べているのです。
このことは、主のときに成就しています。イエスのおられた時代、イスラエルの神の民の家は、強い人であるイエスに守られていました。それで、
神の民の家に押し入ろうとしたサタンはまず、強い人イエスを縛ったのです。以下のことばどおりです。
マタイ 27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
強いものイエスは縛られた
このようにして強い人イエスは、サタンの画策の中で縛られ、その後、この
神の民はサタンの、惑わしに席巻されるようになります。
彼らは、惑わしの中で自ら支配者であるローマの国に敵対し、反逆し、その結果、ローマの軍隊に
攻められ、自滅してしまったのです。エルサレムの人々は、最後の一人まで、
ローマにより滅ぼされてしまったのです。彼らは彼らを守ってくださった強い人、
イエスを縛り、結果、サタンの惑わしの中で自滅してしまったのです。
滅ぼされるエルサレム:強いものイエスを縛り、追い出し、結果、エルサレムの人々はサタンに惑わされ、自滅し、ローマにより、滅ぼされる
同じ意味あいで、
今ペンテコステ系の教会で盛んに行われている「強いものを縛る、悪霊をしばる」との
行いはいずれ、背教の教会の中で誤用され、それは、他でもない聖霊を縛る働きに
移行していくでしょう。以下のヘブル書のことばは、その日を暗示しているかのように思えます。
ヘブル 10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
10:30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
ここには、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者」に関して預言的なことばが書かれています。このことは、今のペンテコステ系の
教会で行われているリバイバル運動の中で成就するようになるでしょう。
契約の血は聖餐のぶどう酒であり、それは聖霊の象徴
その日、背教の教会のクリスチャンたちはしるしと不思議に惑わされ悪霊を受入れ、
判断力を失い、他でもない聖霊を悪霊と呼び、縛るようになるのでしょう。「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者」とは、
そのような勘違いクリスチャンを表現することばと理解できます。
不思議としるしに惑わされ、悪霊を受入れる
<2人、3人と別れ争う>
聖霊が地上に下ったら教会はどのような状態になるでしょうか?
みな、神の霊に満たされ、ハッピーハッピーな教会になるのでしょうか?
どうもそうでもないようです。主は聖霊の火が下るとき、地に分裂、争いが起きることを預言されました。以下の通りです。
ルカ 12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
ここで、主は聖霊の火が地上に下るとき、それは、平和や、一致をもたらすのではなく、逆に
分裂や争いをもたらすことを語りました。
このことは、事実です。
ペンテコステの日に下った聖霊は、当時の神の民であるユダヤ人たちの間に平和や一致というより、
分裂と混乱を起こしました。12使徒を始めとした人々はこの霊を神からの霊として受け、祝福を受けましたが、パリサイ人や律法学者たちはこの霊を受けず、異端、神に背くものとして、使徒たちを迫害しました。確かに火が下ったために、2人3人と別れ争うようになったのです。その中で、ステパノの殉教が起きました。
ステパノの殉教:ペンテコステの火が下った後に起きたことは神の民の分裂と争い
このことは、終末の日にも起きてくるでしょう。終末の日にも神からの霊が下るようになるでしょうが、
しかし、その結果は、神の民である新約の教会内の分裂と内紛と争いです。
以下の様にその戦いの日は預言されています。
黙示録6:3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
ここに書かれている「火のように赤い馬」とは、リバイバルの霊と思われます。しかし、その霊が下った結果は平和でも一致でもありません。
逆に分裂と争いとそして、殺し合いなのです。
火の様に赤い馬:神の民の間から平和が消え、争いや訴訟が起きてくる
何故そうなるのか?それは、片方が聖霊であっても、もう片方は悪霊なので、その間には、
憎しみやそして、殺意まで起きてくるのです。
以下のことばもその日を預言していると理解できます。
マルコ 13:12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます
聖霊が下るゆえに、分裂が起き、教会内で兄弟が兄弟を訴えあうようになるのです。
リバイバルのゆえに教会は分裂していく
<聖霊は追い出されていく>
このような霊の争いや訴え合いを通していずれ、聖霊は背教の教会から追い出されていくようになります。以下のことばの通りです。
2テサロニケ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
ここには、背教が起きることすなわち、教会がキリストの教えに背く日が来ることが預言されています。それとともに、反キリストを「引き止めているもの」すなわち、聖霊が「取り除かれる時」が来ることが預言されているのです。
あたかも、酔っ払いでギャンブル好きなダメ亭主がそれをカバーしていた賢い奥さんを追い出し、
ますます、堕落生活に深入りするようなものです。背教の教会は、最後には本末転倒し、最後のとりでとなっていた聖霊を自ら追い出すようになるのです。結果、教会は
ますます反キリストの惑わしに入っていくのです。
繰り返しますが、終末の日に聖霊は取り除かれ、教会から追い出され、排除されるようになる、のだということを理解してください。そのようにみことばは語っているのです。そして、聖霊が追い出される、ということは、あの日の再現でもあるのです。あの日とは?
すなわち、神の民の都であるエルサレムを追い出され、都の外で、群集の非難の中で十字架の死を迎えた主イエスの生涯とまさに重なるのです。
主イエスを都から追い出した神の民、エルサレムの住民の結末は滅びでした。
ローマ軍が来て、彼らの都を滅ぼしたのです。同じようにイエスの霊である聖霊を追い出す背教の
教会は獣の国アメリカ帝国の下で崩壊し、滅んでいきます。
さて、聖霊が終末の日に教会から追い出されることに関しては、以下のことばもそれを語ります。
黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
戸の外でたたく主
7つの教会の最後の教会、終末の教会であるラオデキヤにおいては、もう主は神の家である
教会の中にはおらず、外に追い出されています。そして、外から戸をたたいておられるのです。
この外に追い出される主の姿、
それは、最後まで反キリストの侵入を防ぎ、最後には神の民により、悪霊扱いされ、縛られ、
「取り除かれる」聖霊の姿そのものなのです。
ここで教会時代の7つ目の教会、ラオデキヤ教会の門をたたいている主は、肉体を持たれた主をさすのではありません。何故なら、教会時代の終わりには肉体を持たれた主は登場しないからです。そうではなく、
これは、終末の日に背教の教会の戸をノックし続けるイエスの霊である聖霊の姿をあらわすと理解したほうが正しいのです。
<再び十字架につけられる主>
このような背教の日を経て最終的には、教会はイエスを再度十字架につけるような冒涜に入っていくと理解できます。そして、それを描くのが以下の黙示録のことばなのでしょう。
黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
主は再び十字架につけられる
かつての日、ナザレのイエスは旧約の神の民、ユダの中心地であるエルサレムで迫害され、十字架につけられました。歴史は、再現し、新約の教会において、主の霊、聖霊は追い出され、十字架につけられるようになるのです。
<獣の刻印>
黙示録には終末の日に背教の教会のクリスチャンに対して、
666の獣の刻印がつけられる日が来ることが預言されています。以下の通りです。
黙示録: 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。
何故終末の日にこのような恐るべき日が許されるのか?何故、神の教会で獣の刻印がつけられる、
などということが許されるのか?
その理由は、他でもない、新約の神の民、教会の背教のゆえであることを知りましょう。また、
主の霊である聖霊を再び十字架につける、という冒涜の故であることを知りましょう。
このことは、かつてのエルサレム崩壊の日の再現なのです。
かつての日、エルサレムの都は西暦70年にローマにより、包囲され、その都の宮は崩壊し、
エルサレムの住民は最後の一人まで殺されました。
何故このような惨劇が、神の愛される都、エルサレムに起きたのか?
エルサレムの宮の崩壊:それは、神の民の背信のゆえに起きた
その理由は旧約の神の民の冒涜、背信のゆえなのです。彼らは、神の一人子であるイエスを受入れず、彼のことばを信じず、逆にキリストを非難し、捕らえ、有罪の判決を下し、十字架でその命を奪ったのです。
そして、その冒涜のゆえ、神の怒りの中で、エルサレムはローマに攻撃され、この都の最後の一人まで、ころされてしまったのです。
同じことが終末の日に再現するのです。終末の教会は終わりの日に十字架を再現し、
主の霊である聖霊を十字架につけるようになります。また、神の霊である聖霊を汚れた霊である、として縛るようになります。
そしてこの冒涜のゆえに教会は反キリストに席巻され、教会の教理は崩壊し、反キリストを拝み、
獣の刻印をつけられるようになるのです。
<一週(7年)の契約>
終末の日に背教の教会が、荒廃し、ついには、サタンや、反キリストと永遠の契約を結ぶようになる
ことについては、ダニエル書に預言されています。
ダニエル書 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
この箇所を見ていきましょう。
「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。」
この預言はいわゆる、ダニエルの70週の預言の一部です。70週の預言は、旧約時代の終わりにおける主イエスの生涯を預言し、なおかつ教会時代の終わりである終末の日をも預言しています。いわば、2重の預言なのです。1つの預言なのですが、しかし、それは、2重に成就するのです。
そして、何故そのようなことが可能なのか、何故、一つの預言なのに、2重に成就することが、可能なのか、というとその大前提として、これらの2つの時代の預言はあたかも一つの預言が再現するかのように、シンクロナイズし、同じ形で、成就することが定められているからなのです。
すこし、わかりづらいですが、このような表現で理解できるでしょうか。
2人の人が24.5cmのサイズの同じ「一つの」靴を共用する、というとき、前提として2人の足の大きさが同じであることが必要です。片方の人だけ、30cmの大足だったら、一つの靴を共用できないのです。
同じ意味あいで、聖書が70週の預言の中で、一つの預言をもって、2つの時代に起きることを預言するとき、それは、2つの時代に起きることがあたかも生き写しの様に、双子の様に
再現し、重なり合うから、それを前提として、描かれている、このことを知るべきです。
2重の預言:主の初降臨の日に起きたことは終末の日に双子の様に、同じように再現する
ですので、何度もいっているように、福音書に描かれた助け主である主イエスの生涯、それは、一人の人の生涯を
描いているのですが、しかし、それとともにもう一人の助けぬし聖霊の歴史を預言したものとなるのです。
さて、前置きが長いですが、「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。」との預言は主イエスの生涯において、成就しました。キリストとのことばの意味は、「油注がれた」との意味合いですが、油注がれた者、主イエスは十字架により、命を絶たれたのです。
そして、それとともにこの預言は2重の預言なので、終末の日にもう一人の助けぬし、聖霊において、
成就するようになります。そもそも油注がれた、とは、聖霊をさす表現なのです。
終末の日に、
「油注がれた者、聖霊」は教会から絶たれるようになるのです。
「自分が取り除かれる時まで」2テサロニケ2:7と書かれているように、
聖霊は、教会から取り除かれ、絶たれていくのです。
「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」
このことは、主イエスのとき、成就しました。やがて来たるべき君主の民であるローマの
兵隊たちが、町であるエルサレムと、聖所である宮を破壊するようになったのです。
西暦70年のことです。
しかし、この預言はまた、2重の予言であり、終末の日においても再現します。
やがて来たるべき君主である、アメリカさらにそのアメリカの意向に沿った人々が、神の民の町である
教会を破壊し、神の聖なる礼拝所である、教会を破壊するようになるのです。
しかし、この破壊とは、必ずしも物理的な破壊を意味するとは限りません。
何故なら、主はかつて、聖所である神殿に関してそれは、ご自分の体である教会のことを語られたからです。
以下の通りです。
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
来るべき君主の民、獣の国アメリカの横暴の中で、キリストのからだであり、神殿である
教会はその教理の土台が崩され、使徒、預言者、さらに隅のかしら石であるキリストの
教理も崩されていくようになるのでしょう。
「その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」
西暦70年のとき、首都、エルサレムは終わりまで、ローマとの戦いが続き、徹底的な荒廃に至りました。
同じように終末の日の背教の教会に関しても終わりまで、戦いが続き、荒廃することが定められています。その根本の教理の土台まで、崩され、とてもキリストの教会とは呼べないものとなるでしょう。
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び」
この1週とは艱難時代の7年のことです。
彼とは獣の国アメリカや反キリストをさすと思われます。
教会を席巻した獣は、多くの者、すなわち、多くのクリスチャンと堅い契約を結びます。
この契約とは7年の中東条約などの政治的なものではありません。そうではなく、
アブラハムが神との間に結んだ永遠の契約に匹敵するものなのです。契約ということばに関して、アブラハムの契約と同じ原語が使われているのです。アブラハムは神との永遠の契約を結び、永遠の命を得るようになりましたが、この背教の教会においては、背教のクリスチャンたちが、同じ意味合いでの契約を獣や反キリストと結ぶようになるのです。したがって、この契約を結んだクリスチャンはみな、
神との永遠の契約を破棄され、永遠の命を失うようになります。
反キリストは教会のキリストの座を占める
「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。」
半週とは、3年半のことであり、大 艱難時代のことです。
その間、今まで、教会において神へささげられていた、いけにえとささげ物が取りやめられます。新約のいけにえとささげ物であるキリストへの礼拝も、祈りも、奉仕も、正しいメッセージも、中止させられるのです。
「荒らす忌むべき者が翼(神殿)にあらわれる。」
荒らす忌むべきものとは、反キリストであり、彼が神の神殿である、
教会の真ん中に登場します。以下のテサロニケ書のことばの成就です。
2テサロニケ 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
反キリストが教会の真ん中に座し、キリストの座を占め、自分こそ神である、と宣言するわけです。
そして、背教の教会はそれを歓呼の声で受入れるのです。不信と背教の極致です。
「ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
このようにして、最後まで、教会は荒廃するのです。
ダニエル書が預言している終末の日の教会、それは今まで他の聖書箇所が語られていたように、
荒廃であり、背教なのです。そして、そうなる理由もはっきりしており、彼等背教の教会が
再度主を十字架につけるようになり、主の霊を排除し、汚れたものとみなすからなのです。
<契約、誓う、証印、獣の刻印>
終末に関することばには、7年(1週)の契約、獣の刻印というように、契約や印ということばが
多いことを知りましょう。そしてこれらのことばは、みな契約に関することばなのです。
何故、サタンは、獣の刻印をクリスチャンにつけることにこだわるのでしょうか?以下の様にです。
黙示録 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
その理由はサタンの働きが神とクリスチャンの間で結ばれた永遠の契約をターゲットにしており、
この獣の刻印は、神との永遠の契約を破棄し、クリスチャンにサタンとの永遠の契約を結ばせるものだからです。
人の契約においても、まず契約書の書面があり、そして、その契約を交わした後、
契約が破棄されないように実印を押したりします。
獣の刻印とはまさにこの契約を実効化する実印の意味合いがあることを知りましょう。
聖霊は我々に契約のしるしとして与えられました。
以下のことばの通りです。
1コリント 11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
聖餐のぶどう酒は主の血であり、かつそれは、我々に永遠の命へ導く契約の血なのです。
獣の刻印はこの契約の血に対抗するものであり、永遠の命を失わせるものなのです。
そして、刻印を受けるとは、具体的には恐らく悪霊を按手されることをさすと思われます。右手と額とは按手の組み合わせなのです。
獣の霊を受けるものはすなわち、悪霊の刻印を受けるものであり、
悪霊と契約を結ぶものなのです。したがって、悪霊の按手を受けるなら、彼の聖霊との契約は破棄され、
彼の永遠の命は失われていきます。であるからこそ、以下の様に
黙示録は警告しているのです。
666の獣の刻印
黙示録 14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
明らかにこの刻印を受けるものは永遠の命から外されます。
獣の刻印を受けるものは火と 硫黄とで、苦しめられ永遠に休みを得ない
<仮庵に住むこと>
聖書は終末の日に教会が背教し、獣の様になることを預言します。
そして、正しく歩む神の民に関しては、
仮庵に入ることを勧めています。
以下の主のことばは、その仮庵に入ることを促すことばであることを知りましょう。
マタイ 24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
24:18
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
屋上とは家の屋上に仮庵を作る、という仮庵の祭りを前提としたことばなのです。