#頻発する幼児誘拐は悪魔礼拝の生贄

これから私自身が信じられない、実に不愉快な話を書かねばならない。フリーメーソン・イルミナティの宗教的側面を追及すると、驚くべきことに悪魔礼拝に突き当たる。しかし、これは驚く事ではなく当然のことなのである。フリーメーンンのトップ、イルミナティの中でも、王とか諸侯とか祭司とかいわれている人々はまぎれもなく悪魔礼拝者である。それがどんな優雅でリッチな人々でも間違いない。特にパワーセンタ ーと言われる家族は直接サタンから指示を受けていると言う。フリーメーソンはその初歩においては他の宗教を容認し、途中でははん神論に導くけれど、究極においては悪魔礼拝者となる。

メーソンの階級のどこからこの悪魔礼拝が行われるのかは定かではない。また、階級にかかわらず、さまざまな結社、グループの中には進んでこの醜悪な礼拝を行っている人々もいる。悪魔礼拝とは一般に考えられているような、マンガ的なものではなく語るも恐ろしい犯罪である。私はそのおよそのやり方を知っているけれど、ここには書かない。書きたくもないし、本当は知りたくもなかった。

しかし、フリーメーソンおよび神への反逆の民の素顔を知るためには仕方がなかった。お断りしておくが、これは二○世紀の近代国家の美しい都市の中で、今や頻繁に行われている秘密である。ここでどうしても語らなければならない事は、幼児の犠牲である。悪魔礼拝には幼児が殺され、捧げられ、その血が出席者に飲まれ、その肉が食される。これは明らかにキリスト教の最も聖なる儀式、聖餐式へのサタンらしい模倣と椰楡である。キリスト教会では主に二つの儀式が行われる。洗礼式と聖餐式である。前者はいうまでもなく、入
会者が水の中に入る儀式である(全身水に入る場合と、ただ頭に水をふりかけられる場合もある。
 

 #やがて宗教も一つに統一される

前者を浸礼というのに対してこれを滴礼という。ちなみに日本人には教会に行くと
だれでも洗礼を受けさせられる、あるいは受けられる、と思っている人が多いが、洗礼はこの教えを良く理解した上で本人が決意した事が牧師によって確認されなければ受けさせられる、あるいは受けられる事はない。一方、聖餐式はキリスト教信者となった人が受けるもので、キリストが十字架に掛かる前に弟子たちに命じた記念儀式である。「主イェスは渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯はわたLの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」コリント人への第一の手紙11章

キリストは自分の血が「罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約」であること、また、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食ベ、わたしの血を飲むものには、永遠の命があり、わたしの血はまことの飲み物である。

わたしの肉を食ペ、わたしの血を飲むものはわたしにおり、わた
しもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、またわたしが父によって生きているように、わたしを食ぺるものもわたしによって生きるであろう。天から下ってきたバンは先祖たちが食ぺたが死んでしまったようなものではない、このパンをたぺるものはいつまでも生きるであろう」ヨハネによる福音書6章と言われた。

これはキリストが人間の身代わりとして、十字架にかかり、死ぬことによ
ってそれを信じるものの罪が許され、キリストの持っている命が与えられ、それによって信じるものが永遠の命を持つに至るということを意味していた。聖餐式にはキリストの肉を象徴するパンと、血を象徴するぶどう酒が用いられる。ぶどう酒を小さな杯で飲み、小さなパンを食べる(ウェハース、クラッカーなどの場合もある。カトリックの場合はぶどう酒は神父だけが飲み信徒はパンだけと聞いている)。これはあくまでキリストの愛と犠牲を記念するものであって、決して肉そのものを食べ、血そのものを飲むことを意味していない。

肉や血が問題なのではなくて、キリストの死による、罪
の許しと永遠の命が問題なのである。一方、悪魔礼拝においては実際に幼児が殺され、その心臓が悪魔に供えられ、出席者は幼児の血を飲み、肉を会べる。この驚くべき醜悪な犯罪は今日アメリカ・ヨーロッパで頻繁に行われている。特にアメリカではこの犯罪は非常に多くの目撃者がいるのだが、たとえ警察に届けても警察の力は及ばないと言われている。調ぺている警察官が辞めさせられたり、居なくなったりするのだそうだ。今アメリカでは幼児誘拐が非常に多い。

それらの幼児たちがかなりの率でこの悪
魔礼拝の犠牲になっているという。一説には年間二−六方人も居なくなるというのだが、二万と六万では違い過ぎてこの数字は信用出来ない。しかし、悪魔礼拝が頻繁に行われるためにはこのような幼児を供給する組織的な活動も必要になって来る(書いていて嫌になってしまう)。実際にそのような会社?もあるというから、これはもはや人間の世界の話とは思えない悪鬼の世界である。夏目漱石はキリスト教を皮肉って人間がどうにもならない世界はひとでなしの世界だと言ったが、まさに西欧文明はひとでなしの文明になってしまった。

それはキリスト教への背信が広範に広がっているからである。数か月
前、アメリカから掃国した婦人にちょっとその幼児誘拐と悪魔礼拝の話をした。
私は彼女が驚くと思いきや、あっさり「そうですよ、アメリカでは常識です」と言われたのでこちらがびっくりしてしまった。日本には子を殺して捧げるという信仰形態が存在したのだろうか。あまり間いた事がない。しかし、聖書にはそのことが書かれている。

もちろん神がもっとも嫌悪する不徳背信行為
として非難の対象として書かれているのである。さらに中南米に栄えたアステカ、インカ、マヤなどの文化圏、原始ゲルマンなどの古代宗教では人身御供が行われた。しかし、今日行われている幼児犠牲は特別な意味を持っている。人類が到達した最も文化的な国の真っただ中で行われているのである。しかも、その信仰の対象たる悪魔サタンはもはや空想や信仰の世界のものではなく、自分の出番を今や遅しと侍ち受けている現実の存在なのである。

「さて、天では戦いが起こった。ミカエルとその御使いたち
とが、龍と戦ったのである。龍もその使いも応戦したが、勝てなかった。そしてもはや天には彼らのおるところがなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使いたちも、もろともに投げ落とされた」黙示録12:7−9
 
 

この聖書の記事が何時を指すのかは分からないけれど、これが単なる比喩ではなくて、今この時代を表しているような気がしてならない。クリスチャンは今でもサタンがはるか彼方の天、すなわち霊的世界にいると思っているけれど、実は彼らはもうすでに地上に投げ落とされているのではあるまいか。人類の一部の人々はかつてなかったほど密接に彼らと接触しているのである。近世の欧米社会はキリスト教への反発と攻撃に終始している。まず、進化論が挙げられる。

これほどあからさまに神の創造を標的と
した思想はなかった。ある進化論者は「我々が進化論を信ずるのは、それが真理だからではなく、それを信じないと神の創造を信じなければならないからだ」と言っている。かつて進化論ほど非科学的な思想はなかった。私はこの事をいちいち論じない。余りにも馬鹿馬鹿Lくて論ずる気にもならない。進化論は唯の一つも証明された事のないエセ科学である。

また、アインシュタインの相対性理論は神の絶対
性に対するアンチテーゼだったと言う。また、共産主義は初めからキリスト教撲滅を目指した運動であった。さらに、映画、スポーツ、セックスによる享楽主義。文明の利器による物欲。こうしてヤペテ族(白人種)のキリスト教信仰はズタズタに引き裂かれてしまった(セム、ハム、ヤペテ人種については後から詳しく書く)。

フリーメーンンの最高階級イルミナティは悪魔礼拝者である。その内のユダヤ人は旧約聖書の民でありながら公然と悪魔礼拝者となった。これはしかし、驚くほどのことではない。旧約聖書において、多くのユダヤ人が当時はまだ選民でありながら、局りの異邦人に習って偶像礼拝をし、子供を焼いて捧げた。「主は言われる、ユダの民はわたしの前に悪を行い、わたしの名をもってとなえられる家に憎むべきものを置いてそこを汚した。またベンヒンノムの谷にあるトペテの高きところを築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じた事はなく、またそのような事を考えたこともなかった」エレミヤ書7:31
 
 

マルチンルターはその宗教改革の初めにユダヤ人に助けられたが、のちに『タルムード』を読み、ユダヤ人の真意に気づいた時激怒した。彼は死の直前に説教してこう言っている「ユダヤ人を赦免してはならない、彼らを追放せよ。彼らは我々の公敵であり、絶え間なく主イェス・キリストを冒涜している。彼らは可能ならば喜び勇んで我々すべてを殺すであろう。
実際、彼らの多く、とくにユダヤ人の医師や
外科医はキリスト教徒を殺害している。善き愛国者として、私は諸君に最後の瞬間まで彼らの罪悪に荷担する事のないよ うに警告する」(太田龍氏著『ユダヤ・パチカンの世界支配戦略』二二ぺージ参照)

これは激しい言葉
だが、ユダヤ人の全てではないにしろ、事実に極めて近いと言わなければならない。最近、キリスト教会の一部がこのルターの言葉や態度が誤りであったなどと、勝手に訂正しているが、彼らは陰謀の事実に目くらまされ、巧みなコントロールを受けていることに気がついていないのである。

このような無知
の手合いは日本にもいる。彼らは聖書の言業すら無視している。「ユダヤ人たちは主イエスと予言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、わたしたちが異邦人に救いの言葉を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである」テサロニケ人への第一の手紙2:16〜16
ナチスによる六○○万人の虐殺という虚構以来、ユダヤ人を正確に表現する事が全く出来なくなってしまった。ナチスは確かにユダヤ人を殺したが、六○○万人も殺せない事は明白な事実である。

さらに、ヒトラー自身がユダヤ人だったという事実は何を意味するのだろうか。ヒトラーがまずオーストリアを攻めたのは、自分のユダヤ人の血統の公的証拠を抹殺するためであったと言うではないか。なお、ルターがそれと知らずに最初フリーメーソンと協力した事も事実のようだ。フリーメーソンの背景であるグノーシス主義の本流からは、どんな宗教でも作り出す事が出来る。

そこには『どうやってあ
なたの宗教を作るか』という教科書まであるのだ。フリーメーソンもナチズムも、所詮同じ素材の味付けが違うだけのものである。もし、イスラム教風味の宗教を作りたいならスーフィ。ユダヤ教風味ならジューイッシュ・ニュー・エイジ・シナゴーク。仏教ならニチレンショウシュウ(この箇所はアメリカ人のものを翻訳して使っている)あるいはダライラマのラマ教。キリスト風仏教味ならムーニズム(統一協会)◇アメリカ・インディアン風味ならアース・サークルあるいはベアー・トライブ・メデシン・サークル。キリスト教風味ならモラビア派、またはエホパの証人、モルモン、アイ・アム。他にもエジ
プト風、アーリアン風、魔術風、太陽信仰風、悪魔礼拝風、新思想風、何でもござれである。

現在、彼
らが熱心に進めている宗教運動にマイトレーヤーがある。これは何とかして二セキリストを作り出そうとする運動でバキスタン人ラーマット・アーマドをマイトレーヤ−すなわちユダヤ教のメシア、キリスト教のキリスト、ヒンズー教のクリシュナ、イスラム教のイマム・マディヒなどの全てを満たす人物として売り出そうとしているものである
 
 

アリス・ベイリー、ベンジャミンクレームなどがそのためのバプテスマのヨハネとして活動している。アーマッドは一九七七年にカラチに現われ、ロンドンに行き、運動を始めた一九九一年にはマルタ島会談の時ブッシュとゴルパチョフに会っている。この運動のためには巨額の資金がパワーセンターから流れたが期侍したほどの効果は現われていないのでいずれ引き下げられるのではなかろうか。私はこの運動については全く無視して良いと思う。下らなすぎる。