異教徒の哲学者や詩人達は神の統治や来世についてのみならず、現世の美徳についてはるかに、より立
派に著述している。キケロや、彼に似たような人々によって示されたように、人間は生まれつき、他者
に奉仕しなければならないし、
敵に対しても約束を守り、特に必要な時には、彼らに対して、誠実で役に立たねばならないと彼らは記
述しているのである。
さて、私は三つのイソップ物語の中にはタルムード主義者やラピ達のすぺての著書の中によりも、そし
てユダヤ人達の心の中にこれまでに育まれる事ができたすぺての物よりも、さらに多くの知恵が存在し
ている事を主張したいと思う。人は私が少し言い過ぎていると思うかもしれない。しかし、私はいいす
ぎどころか、あまりにも少ししか言っていないのだ!と言うのは私は、彼等がいかに我々ゴイムを彼等
の著書の中で呪い自分達の学校や礼拝の場において、我々に災いがふりかかる事をどれほど望んでいる
か、良く理解しているからである。彼等は高利貸しによって、我らの金をかすめとり、可能な場所では
どこであっても我々をあらゆる種類の策略にかけるのである。何よりも悪い事は仮等はこの点において
そうする権利を持っていると確信しており、うまくやろうとしているという事である。っまり、彼等は
自分達がそうすることで神に奉仕していると思っているのであり、また彼等はそうした事がなされるぺ
きだと教えているのである。
悪魔自身、そして悪魔が取りついているもの−−ちようどユダヤ人のように−−以外に、いかなる異教
徒もそんなことはした事はなく、また、これからも誰もそうすることはあり得ないであろう。減多に起
こらぬ事なのだが、博識なラビで、神の恩寵によりキリスト教徒となったブルゲンシスは自分達の宗派
において彼等がキリスト教徒を恐ろしいほどに呪っている(リラも記しているように)といふ事実に心
動かされ、この事から時分達は神の子ではないといふ結論に達した。何故なら、もし彼等が神の子であ
るなら、彼等は捕囚されたユダヤ人達がバビロンで振舞ったのと同様に振舞う事であろうから。即ちエ
レミヤはこの人達に開して次のように記してい
る。「汝等を捕囚している都市の王の為に祈りなさい。彼等の平安は又汝等の平安なのだから」。しか
しながら我が下劣でにせ者のユダヤ人達は彼等が可能な所ではどこても、そして彼等にできる事であれ
ばなんでも、何の理由もなしに我々を呪い、憎み、害悪を与えねばならないと考へているのである。だ
から彼等が神の子ではない事は確賞な事なのである。この点に開しては後に更に述ぺる事としよう。
(偽りの名でイエスに対する自分達の憎しみを隠し持っているユダヤ人のすれっからしなやり方に対す
る諸論述は、大変興味深いものがる。ここには次のように言われている。
)
それ故に彼等はイエスの御名を扱ふ。」Jesusはへブライ語でば「治療士」または「救済者」を意味す
る。古いサクソン人は「Heirichi」またば「Hiprichi]
という名称を用いた。それは我々が現在「Helprich」と呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかし
ながらユダヤ人達は故意にねじまげて彼を「Jesu」と呼ぶ。それha
ヘブラィ語ては名前でも言葉でもなく、単なる3つの文字か、数字か、暗号でしかない。そ普あたかも
私がCLUとい書を数字と見なし、CLUを一五五であるとするようなものである。(CLU:ローマ字では
C−一○○、L−五○、Vー五 = 一五五。VとUは語源的には同じである。)かくしてかれらはイエス
を三一六と呼ぶのである。その様な数字はNebel Borikを意味するもう一つの単語を引き出させるといわ
れている。この点について読者はァントン ニルガリタムの著書においてょり多くの事を学ぺるであろ
う。
ユダヤ人達はそれらの教字や単語をつかって何という悪魔的な所業をなしている事であろうか。彼等は
我々キリスト教徒を同様のやり方で扱うのである。我等が彼等を訪問し、彼等に迎え入れられた時、彼
等は「神があなたを歓迎する」。(ドイツ語ではGot wilkommen)という言をねじ曲げて「Shed
wil kom
」これは即ち「悪魔よやってこい」又は「悪魔がやってくる」である。我々がヘプライ語を理解できな
いのを良い事に彼等はひそかに我等に封する呪いを実行しているのである。つまり、ユダヤ人達が
我々を地獄とすべての吹こうの炎で呪っているのに、我々は彼らが友好的なのだと思っているわけであ
る。
かくして彼等は彼(イエス)を売春婦の子と呼び、彼の母マリアを売春婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶
屋との不倫のうちに産んだとするのである。まことに不本意な事であるが、私は悪魔と闘うために非常
に粗野な言葉を使わねばならない。彼らが単なる憎悪とわがままでこうした嘘をつくのは、ただ彼らの
哀れな若者や軍純なユダヤ人達がイエスの教義(それを彼等は否定できない)を受け入れてしまわぬよ
う、我等の主に封する偏見を彼等に抱かせるためなのである。
サバスティアヌス ムエンスターもまた彼のBibliaの中で、聖母を「マリア」と呼ばず、「ハリアHaria
」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいるといわれると指摘している。そしユダヤ人達が彼らの仲間内だ
けでなしている私達が知らない、もっと多くのことを誰も知る事はできないのである!
(ルターは救世主やバーコハブについての入念で科学的な議論においてユダヤ人的性格、彼等の著書、
願望に開する彼の博識の完全さを示し、最後に、いわゆるキリスト教徒の中ての、「捕囚」の問題に到
達する)
彼らが我々の内部に捕囚された事を嘆くのはなんとすばらしくひ
どい嘘であるかを良く知っておいて欲しい。エルサレムは一四○○年以上前、破壊された。それ以来、
我々キリスト教徒は世界中でユダヤ人によって苦しめられ、迫害を受け続けたのである。おょそ300年
近くにわたって(上記のごとく)ずっと彼らはキリスト教徒を捕獲し殺害したと訴えるのは正富な事な
のである。その上、今日にいたるまで我々はどんな悪魔が彼等を我々の国へ連れ来たったのか知らな
い。我々が彼等をエルサレムから連れてきたわけではないのだ!
これらすぺてに加えて、誰も彼等を今日において拘束しているわけではない。土地も公道も彼等には開
放されている。彼等がその気になればいつでも自分達の国へ移動できるのである。我々は彼等から自由
になるために彼等に一つのプレセントを付け加えたい。彼等は我々の国にあって疾病やペストそして災
難以外の何物でもない、我々にとっての重い荷物である。ある人間が自らの家の中である者に我慢でき
ぬ時読者はそ奴を捕らえられていると呼ぶであろうか。彼等はなぜ我々キリスト教徒を我々の国の中で
捕囚の身とする事ができるのだろうか。仮等は我々を鼻面に汗して働かせ、一方、自分達は暖かいスト
ーブの後ろに座っていて金や商品を所有している
のであろうか。なぜ彼等は怠け者の大食漢や大酒のみで、我々が働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、
彼等の呪うぺき高利貧しによって我々及ぴ我々の財産を略奪するのであろうか。なぜ彼等は我々を嘲
り、我々の上につばをはきかけるのてあろうか。何故なら我々は自分達の犠牲において働かねばなら
ず、彼らが貴族であるのを許さねばならないのだから。かくして彼等は我々の王であり主人なのであ
る。我々は自らの財産と汗と労働を以て彼等の召し使なのである!
そして彼等は我々に感謝し、報いんが為に我らの主を呪っているというわけなのである!