嘘つきにしてしつこい犬

彼らは本当の嘘つきにしてしつこい「いぬ」である。彼らは聖書の全ぺ−ジを始めから終っわりまで彼
らの解釈で絶間なく曲解したのみでなく、それを偽造したのである。ユダヤ人達の切望とため息のすぺ
てがいつの日か我々異教徒を、彼らがかつてエステルの時代にペルシャで異教徒を扱ったと同様に扱い
たいという所に向けられているのてある。ああ彼らはなんとエステル書を偏愛している事てあろうか。
その書は彼らの血に飢えた、執念深く残酷な欲望と希望とをまことにすばらしくも肯定しているのてあ
る。自分達を神の民と妄想し、異教徒を殺し、押しつぶしてしまいたいと望み、またそうせねぱならぬ
と考へている彼らユダヤ人達ほど血に飢え、執念深い人達の上には、太陽が輝く事は決してなかったの
である。彼らが期待する彼らの救世主の主要な約束は神が彼らの剣によって全世界の人々を殺害する事
なのである。彼らがまづ我々キリスト教徒に封して示したように、もしできさえすれば、彼らは、しば
しばそうしようと試みて、繰り返し自分達の鼻先をこっひどく叩かれてきたのである。

つまり彼ら自身の欠陥と高麗礼的なプライドとを暴露している。

(ルーテルはここで割礼に加えて、ユダヤ人達が自慢する多くの文献を列挙している。寄せ集め的な法
文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており不信心で邪悪である事を
嘆く聖書の中の多敷の文章を引用し、その上で悪魔をユダヤ人と比ぺて語っている。)

異教徒より邪悪な者達

もしユダヤ人達が神の戒律を持たず、またそれを知らなかったとしたら、どんなに彼らにとって、まし
な事であっただろう。なぜなら、もし彼らがそれを持っていなけれぱ彼らは有罪を宣告される事はなか
ったからである。彼らは神の戒律を持っていながら、それを守らぬばかりか、絶間なくそれに反逆して
行動するが故に呪われているのである。
(ただ知っているだけなのである)

こんなことが成り立つなら、もし例えば、殺人者、売春婦、泥棒、ならず者達、そしてすぺての悪人ど
もは、もし彼らが神の言葉を持ち、神を恐れ、従ふぺきである事を知り、神を愛し、彼に仕え、神の御
名を構ヘ、殺人や不倫を犯すぺきでばない事を知っている等々であるなら、(知っていると言うだけ
で)これらの者共が目分達は神の神聖にして選ばれた人々である等と公言しても良い、というのと同じ
事になってしまうのだ。

しかしながら披らは現に罪を犯しており、呪われているのだから彼らがたえへもっとも神聖にして正し
いところの神の言葉を新有しているとしても、これら悪漢どもがそれに反して罪を犯しているという事
には変わりはないのである。それなら、ユダヤ人達と同様、これら悪党どもに、神は神の律法を通して
彼らを神聖化し、彼らを神の特別な民として選抜なされたという事を、すぺての諸国民の前で彼らに自
慢させようではないか。ユダヤ人達が自らの宗派を自慢し神が神の律法を通して彼らを浄化して神の選
民と為し給うたことで、神を賞美し感謝を捧げている時、一方では彼らは自分達がそれらの戒律などま
ったく守っておらず高慢と妬み高利貸し、貪欲、そしてすぺての卑しさに満ちているという事をよく承
知しているのである。そしてまた、彼らは何よりも祈祷において敬虔にして神聖にふるまう者達ではあ
るのだが、彼らユダヤ人達の栄光もまた前述の悪党共の栄光と同じ事になってしまうのである。彼らは
高利賃しを行うのみならず、(私は今は彼らの他の悪徳についてば黙っていよう。)高利貸しを神がモ
ーゼを通して彼らに命じ給うた権利として教えるほどに盲目であり、この点に関しても、彼らは他の場
合と同様ひどいやり方で神について嘘を述べへているのであるが、これについて今は詳細に述ぺる余裕
はない。

 

彼らは十戎を愚弄する。神を馬鹿にする

もし十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を患か者の如くに扱う詐欺
師かぺてん師以外の何者でもない。

それは、あたかも悪魔の統領が、祭司か牧師の衣装をつけて我々の間を歩き回ったり、その様な方々の
すぺての戒律や生き方を順守するかのようにふるまっているのと同様である。しかしながらその様な精
神の面での粉飾の下に真の悪魔、オオカミ、教会の敵冒涜者が居り福音も十戎も、ともにふみにじり、
呪いそして非難しているのである。神の御前てそれは何と素晴らしい聖人ではないか。あるいはもしこ
の世で、一人の美しい女性が慎み深いしとやかさと純潔さに満ちたマナー、公正さ、立居振舞をしなが
処女である事を示す花飾りをつけてそぞろ歩いていたとしても、裏では十戎に背く淫らで恥づぺき売春
婦であったとしたら、たとへ彼女が見える所では純潔の公正さや振舞いを守ったとしても彼女の素靖ら
しい従順さはいったい何の役に立つのだろうか。彼女はだらしのない公娼達の七倍も軽蔑されるという
結果になるだらう。

このように神は、彼らが外見は戒律と高潔さの様子を示しながら、
あらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行いをしているので、神の預言を送ることにより、常にイスラエル人
を卑しい売春婦と叱ったのである。特にホセアが二章四、五で嘆いたように。「私はその子らを哀れま
ない。彼らは淫行の子等だからである。彼らの母は淫行をなし、彼らをはらんだ披女は恥ずぺき事を行
った。彼女は言う。『私は我が懸人達についていこう。彼らは私にパンと水、羊の毛と麻と油、そして
飲み物を与える』と」乙女や女性が敬虔かつ清潔で見苦しくなく装い外見上、慎ましやかに振舞うを見
るのは、実に素晴らしい事である。しかし彼女がもし、売春婦であるならその(すばらしい)衣装、装
身具、花飾り、そしてアクセサリーは、ぬかるみの中の雌豚が身につけたほうが、より、まともにみえ
る事てあろう。ソロモンが言うように「きれいで馬鹿な女は、雌豚の鼻の上につけられた黄金のモール
のようである」。

親愛なるキリスト教徒よ、こうした事から盲目のユダヤ人どもが貴方たちを誤り導くのを黙認する時に
は、自分達が何をしようとしているのか、よく気を付けるぺきである。このような場合には一つの諺が
確かに成り立つであろう。すなわち、「盲目の者が盲目の者を導くなら、両者とも、堀に落ちるであろ
う」という諺が。それ以上のことで彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らず、それでも異
教徒達に封し高慢で居丈高になる。神の前に出るなら、異邦人のほうがまだましである。何故なら、彼
らは神聖さに関してそんな高慢さを持っていないが、しかしおごり高ぶる聖人達や罪深い涜神の者や嘘
つき者どもより、はるかに律法に適ったことを為すからである。