論争することの無益さ

それゆえキリスト教徒は現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしあなた方が彼ら
と話さざるをえなくなったり、話したくなったときには以下のこと以外にはいうべきではない「ユダヤ
人よ、あなた方の会堂及び司祭たちとともに、あなたたちの王國は一四六○年間破壊されているという
事を知らないのか。われわれキリスト教徒がキリスト生誕後一五四三年に記すやうにこの年は正確には
一四六九年間であり、ヴェスバシアヌスとティトスがエルサレムの神殿を破壊し、そこからユダヤ人を
追ひ払ってから一五○○年が過ぎているのだ」と。
この小さいクルミをユダヤ人に与えて彼ら同士の間で好きなだけそれに噛み付かせ、議論させるとよい
のだ。
 

神のこのような悪るぺき怒りこそが彼らが確実に誤っており、悪をなしている充分な証拠なのである。
子供でさえ、そんなことは理解てきるであろう。誰も自らの國民をそれほど無慈悲に処罰し、慰めの言
葉も、また、その様な悲惨さが続く期間や期限も示すことなく沈黙を保っているような神等といふもの
を想像すらできない。誰がその様な神を信じ、希望を見出して信頼したいと思うであろうか。それゆ
え、この怒りによって、ユダヤ人は、はっきりと神に拒絶されており、もはや彼らは神の民ではない
し、また、神も彼らの神ではないという結論に達ぜざるをえないのである。ホセア書1ー九「ロアン
ミ、あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなた方の神ではない」。そう、彼らは恐ろしい
ジレンマに入っているのだ。彼らがこうした事に封してどんな解釈をしようと、我々は自の前に我々を
欺く事ができない事態をみているのである。
 
 

神の怒りの犠牲

そして、感覚と理性のひらめきのある者は、必ず次のように自ら考える事てあろう。「ああ神よ、事態
は我々にとってよくない。我々の悲惨さは大きすぎる。迫放は長すぎ、過酷すぎる。神は我々を忘れ給
うた」と。
もちろん私はユダヤ人ではない。しかし、私はこの国民に対する神の恐るべき怒りについて考えるのは
恐ろしく嫌な事だ。
 

私は身震いするが、その考えはわたしのからだと生命の中にしみこんでくる。すぺての偽りのキリスト
教徒と信仰なきものに封する地獄での神の永遠の怒りとはどのようなものなのであろうか。ユダヤ人達
が主イエス・キリストを彼らが望むどのようなものとみなしても別にかまわない。我々はルカ傅二一:
20−23
の成就をみる。「エルサレムが軍隊によって囲まれるのを見たら、その滅亡は間近である。−−なぜな
らそれは、書き記されているすぺてのことが成就する報復の時だからである」。
 
 
 

要するに前述の如く、我々の信仰に開してはユダヤ人とあまり論争すぺきではない。子供のころから彼
らは我等の主に封して毒と憎しみを持って育てられてきているので、彼らが自らの悲惨さを通して柔軟
になり、救世主が到来し、それが主キリストであるという事を告白せざるをえないような地点に到達す
るまでは何の希望もないのである。さもなければ彼らと議論するのは概して時期尚早であり、無駄な事
なのである,我々の信仰を更に強めるために彼らの信仰と聖書解釈における幾つかの愚かさ加減を考え
て見よう。なぜなら彼らは我々の信仰をその様な汚いやり口で非難するのだから。それが萬一、一人の
ユダヤを改心させたとしたら、彼は恥じ入ることであろう。恥じ入れば恥じ入る

ほど良いのである。我々はユダヤ人達とはユダヤ人とその行為に関して以外話す事はない。そうした事
については、我がドイツ国民はよく知っているのである。彼らは一つの原則を保持して、それを頼りに
している。即ち、彼らは地上でもっとも高貴な國民の生まれ、アプラハム、サラ、イサク、リペカ、ヤ
コプ等の子孫であるという事である。われわれ(異教徒=ゴイム)は、彼らの目から見ると人間ではな
く、ほとんど虫けらにも値しない。我々はかの高貴な貴族の血統ではないからだと。

これが彼らの主張であり、私の考えでは主要にして最も強固な部分である。それゆえ神は彼らの宗派、
祈り、歌、教義そして全生涯において彼らを苦しめなければならない。そこで彼らは神の御前に立ち、
「彼」を苦しめる。(私は神について人になぞらへて話している。)神は異教徒から彼らを分離した事
で、また聖なる父達の子孫たる事を彼らに許した事で、更にまた、神御自身の神聖な民として彼らを選
んだ事等々で、彼らがいかに自らを高みにおき、神を誉めそやしているか、その声を聞かねぱならな
い。そして父祖達の血筋と子孫である事を自慢する事には際限がないのである。