山へ逃げる by エレミヤ
告:
教会は終末の日にソドム化する。そのソドム化した教会にさばきが下る。
災いに巻き込まれないため、正しいクリスチャンはソドム化した教会から逃れることが
すすめられている。
山へ逃げるロトたち
本日は、「山へ逃げる」として、以下の箇所から見ていきたいと思います。
マタイ24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
本日はこの箇所の意味合いを見ていきたいと思います。
この「山へ逃げなさい。」ということばを考えてみましょう。このことばの第一義的な意味合いは、私たちでもよくわかると思います。それは、敵の軍隊が、ユダヤを攻撃し、
神の神殿の聖なる所に荒らす憎むべき者が立つその日には、ユダヤの人々は山へ逃げろとの意味合いです。
このマタイ24章に書かれている一連の警告された出来事、すなわち、エルサレムが軍隊に囲まれる、宮が崩壊するなどのできごとは、西暦70年にローマにより、エルサレムが攻撃されたときに成就しました。
その時、エルサレムにいたクリスチャンはこの主のいわれた「山へ逃げなさい」との
ことばを覚えており、その日、山へ逃げたため、滅ぼされず命を救いました。
AD70年、エルサレム崩壊の日、山へ逃げたクリスチャンは命を救われた
さてこのマタイ24章の預言は2重の預言であるとはよくいわれることです。
すなわちこの預言は主の初降臨の日に成就し、なおかつ終末の日に再度成就する預言なのです。
初降臨のときの預言はすでに成就しており、終了したことです。しかし、我々が望むこと、それは、未来に関する警告を知ることです。
我々は、終末の日に関して知りたいと願っているものです。
終末の日において「山へ逃げろ」とはどのような意味合いがあるのでしょうか?
このことを考えてみたいと願っているのです。
さて、聖書の解釈に関しては、ペテロの手紙に「預言を私的解釈するな」ということばがあります。
この私的解釈ということばの原意は、「そのテキストからのみ、解釈してはいけない:他のテキストも参照するように」という意味合いです。
すなわち、聖書の預言を解釈するときは、その該当箇所のみからでなく、他の聖書箇所をも参照することが語られているのです。
「山へ逃げる」ということばに関しても私的解釈、すなわちその箇所のみから解釈せず、他の箇所をも参照していきたいと思います。
「山へ逃げる」との記述は実は旧約聖書の中でも使われています。
以下の箇所です。
創世記 19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
これは、有名なソドム、ゴモラが滅ぼされる話の中で、御使いが、ロトに山へ逃げることを語っている箇所です。全体としては以下の様な記述になっています。
創世記 19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。
19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。
19:8
お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。
19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
19:22
急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
この箇所で、マタイの福音書のことばと同じ「山へ逃げる」ことが書かれていることは決して偶然ではありません。聖書は神の知恵によって書かれた書なので、小さなことにも神の配慮や意思が働いているのです。このロトがソドムを逃げる箇所と
前述のマタイの箇所とは一見何の関係もないように見えますが、実は関係があると思われるのです。
これらの箇所に何故「山へ逃げる」という同じ表現が使われているのでしょうか?
そのことを考えてみたいと思うのです。
マタイ24章の記述は以下の様な記述になっています。
マタイ24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
これらの箇所を比べてこのことがわかります。
創世記、ロトの記述では、ソドムが火で滅ぼされることに関連して
ロトたちに、ソドムから出て山へ逃げることが語られています。
それに対して、マタイ24章では、荒らす憎むべきものが聖なる所に立つ、すなわち、
教会のキリストの座に反キリストが立つことと関連して、
山へ逃げることが語られているのです。
これらの事実を通してこのことがわかります。
すなわち、荒らす憎むべきものが聖なる所に立つとき、その
時教会は変質し、そして、ソドム化する、ということです。
そして、その時、正しいクリスチャンはそのソドム化した教会から
逃げ出すこと、そして、もし逃げ出さないなら、ロトに語られているように、
そのソドム化した教会で命を失い、永遠の命を失う、このことが書かれているように
思えます。
教会がソドム化する?聞いたことがないことかもしれませんが、しかし、
聖書はこのことを預言しています。
以下を見てください。
黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
ここでは堕落、背教の教会がソドム、エジプトと呼ばれるようになること、
その都で、聖霊となられた主が再度十字架につけられることが描かれています。
ですので、終末の日に教会が背教し、神の前にはソドムと呼ばれる都となってしまうこと、そのことは、残念ではありますが、しかし、実現する未来であることを知りましょう。
その日、教会は背教化し、ソドムやエジプトと呼ばれる都となる
この理解に基づき、上記創世記のロトの記述を見ていきましょう。
順に見ていきます。
創世記 19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
この箇所ではロトの家を訪れた御使いに関連して、
ソドムの人々がロトの家を取り囲んでいます。
ここで書かれた「知る」とは、性的関係をも示すことばです。したがって、
ここでは、ソドムの人々が御使いに関連して同性愛的関係を迫っていることがわかるのです。ソドムの罪、それは同性愛の罪なのです。
そして終末の日の背教の教会が「ソドムやエジプト」と呼ばれるとき、
そのときには「同性愛」ということが一つの鍵となることを知りましょう。
この視点で現在の教会を見るとき、それはまさにソドムへの道をたどっています。
もう教会は以前の様に同性愛を拒否してはいません。
逆に「同性愛的行いはよくないが、同性愛的傾向に関しては、これを否定するべきでない」などと詭弁の様な論理をかざして受入れるようになっています。
カソリックや一部のプロテスタントは既に聖書の教えを否定し、このような詭弁を受入れています。
同性愛カップル:教会のソドム化とは、教会が同性愛を受け入れることと関係する
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。
ロトは、滅ぼされるべきソドムの町に住んでいたが、しかし、その町から出て
自分の命を救った義人です。
終末の日においてもこのソドムの冒涜、背教は繰り返されます。
その時、この滅ぼされるべきソドムの様な教会にも何人かの義人が残っているはずです。その義人がなすべきことは何でしょう?それは、あくまでソドムに残り、それを改革することではありません。聖書的に正しい方法はロトの様に、家族を連れてソドムから逃げ出すことなのです。このことを知るべきです。
19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。
19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
この時、ソドムの人々は義人ロトに向かってきました。彼をひどい目にあわせようとさえしました。
ですので、終末の日において、あくまでソドムを拒否し、その歩み方に同調しない人々は、ソドム化した教会の人々からひどい目にあわせられる可能性があります。
「戸を破ろうと近づいて来た。」
ロトに迫るソドムの人々
戸は家の入り口で家の外と内とを区分するものです。
この時、ソドムの人々は、義人ロトの家まで押しかけ、その戸を破り、
中に侵入しようとさえしました。
同じことが終末の日に起こるでしょう。
クリスチャンとして正しくみことばにとどまり、同性愛に対して断固として
拒否する教会に対して、多くのソドム化したクリスチャンが押しかけ、反対し、
その戸口を破り、偽りの教理を受入れさせるべく強制する日が来るでしょう。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。
19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
ここでも 戸のことが書かれています。また、戸を閉めたことが書かれています。
ですから終末の日に大事なことはこのことです。すなわち、これから始まる全世界の
教会の背教化、ソドム化、同性愛受け入れ化の中で 戸を開けて迎合することではなく、戸を閉めてそれらのトレンドに一線を画する、このことが大事なのです。
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
ここでは、御使いがソドムを滅ぼそうとしていることが語られています。
ですので、聖書の教えにおいて、同性愛という非常に罪深い行いや傾向に関して知りましょう。それは、かつての日、ソドム を滅ぼした罪なのです。
そして、その罪は終末の日に、ソドム化した教会で繰り返されます。教会は同性愛を受入れ、ソドムと化すのです。そして、その行き着く先はソドムと同じ裁き、火のさばきです。
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
さて、御使いから、ソドムが滅ぼされるとの警告を受けたロトは身内である、
婿たちに警告にいきました。しかし、彼らの反応は、よいものではありませんでした。
婿たちにとり、それは冗談話のように、聞こえ、彼らは本気にせず、ソドムを逃げ出そうなどとは思わなかったのです。
このような婿たちの態度は、勿論よいものではないのですが、しかし、このような
記述が聖書に書かれているのは、終わりの時代に生きる我々への教訓や警告として書かれているのです。
この婿たちの態度から教えられること、それは、終末の日、ソドム化した教会に属するクリスチャンたちの態度も同じようなものになる、だろうとの教えです。
教会がソドム化している、同性愛を受入れている、必ず神からの火のさばきが下るので、このソドム化した教会から出て命を救おう、そんな風に警告をしても、警告を行う人が受ける報いはこの婿たちと同じ態度、冗談でしょう、という反応であると思われます。一緒に逃げ出す人などあまりいないと想像できます。
しかし、そうであっても、主のいわれたことが正しく、聖書に書かれたことが正しいのです。
聖書に書かれたように、終末の日に教会がソドム化するとき、それにともなって、
火のさばきが必ずその背教の教会に下る、ということは正しいのです。
その日、聖書的であり、命を救うクリスチャンは、婿たちの様にそれらの警告を冗談とみなす人々でなく、真摯に警告を受け、そのソドムした教会からすみやかに
脱出する人々であることを知りましょう。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
その次の朝、御使いはロトをうながし、この町から出ることをすすめました。
それでは、とすぐロトは、荷物をまとめて、さっさと町を逃げ出しそうなものなのですが、不思議にも彼の行動は未練たっぷりであり、優柔不断な態度です。
「しかし彼はためらっていた。」と書かれています。何故かれはこんなに優柔不断だったのでしょう?目の前に神から遣わされた御使いが居て、直接警告を受けている、それでもなおかつためらう彼の態度は、解せません。
しかし、聖書に書かれていることは、みな私たちへの警告や教訓なので、この箇所を通して神が語られることがある、と思われます。
このロトを通して聖書が語っていることは何でしょう?
それは、頭でわかっており、知識では知っていても、それでも
なおかつロトがソドムを出ることにはためらいがあった、ということです。
彼はソドムが滅ぼされることを知識で知っていてもなおかつ
そこを出るとの決断がつかず、実行できなかったのです。
終末の日にも同じことが起きると思われます。
聖書黙示録には背教の教会をさして、「ソドムやエジプトと呼ばれる都」と
表現してあります。ソドムという名前が背教の教会につく、その理由は教会がいずれ、同性愛を受入れるからです。そして、神の前にソドムという
はっきりした名前を受ける、ということはすなわち、
かつての日、古代のソドムの町が火で滅んだように、
ソドム化した教会にも火の裁きが臨むことが暗黙の了解として、
預言されているのです。
そして、そのようなことを聖書の知識として知り、また、
現実にその日、教会が公に同性愛を受入れ、ソドムの様になったことを
知っていても、その日、終末の日のロト、義人たちにはためらいがある、
そう理解できるのです。
そのためらいとは?
それは、たとえ、同性愛を受入れ、神の前に正しくない、と
思える教会でも、そういう教会であったとして、クリスチャンとして、
教会を出る、教会へ行かなくなる、という決断はなかなかできない、そう
思えるのです。
何年も何十年も教会へ通うという習慣を身につけた
クリスチャンほど、なかなかその習慣を断ち切って、
たとえ、背教の教会であっても、もう行かないという決断をするのは、難しいのではないか、そんな風に思えるのです。
「すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」
そのようなロトに対して、御使いは、ほとんど実力行使の様な
行動をとります。彼らの手をつかんで、連れ出したのです。
そして、それは主のあわれみのゆえなのです。
御使いに手を引かれるロト
同じようなことが終末の日に起きるかもしれません。
終末の背教の教会の中でなおかつ義人として歩むクリスチャンたちに対して、
また、そこを出るのをためらうクリスチャンに対して、神はあわれみのゆえに、
実力行使を行うのかもしれません。
実力行使?具体的にはどんなことが起こるのでしょう?
このあたりはもう想像の域を出ないのですが、何か教会を出ざるをえない、
状況を神が私たちのために起こすかもしれません。
教会の牧師からうとまれたり、突然教会から除名されたり、
または何か問題があって、物理的にいけなくなる状況が起こるかもしれません。
もし、そのようなことが起きたら、それは、神のあわれみの御手なので、
逆らったり、強情をはらずに速やかにソドム化した教会を出るべきだと
思います。
もちろん、そのような特殊な方法で出されるより、自分で判断してソドム化した教会を出るほうがずっと良いように思うのですが。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
このとき、御使いは、ロトたちに対して、このソドムの町から、命がけで逃げること、
立ち止まらず、山へ逃げることを語りました。そしてそうしないと、
滅ぼされてしまうことを語ったのです。
そして、このこと、命がけで逃げることが終末の日にソドム化した教会においては、
大変大事なことであることをよく知ってください。
ソドムへ下る火:私たちはソドム化した教会から逃れることが大事である
私たちはその日、ソドム化した教会から一生懸命逃げるべきなのです。
そうせず、教会にとどまるなら、たとえ、その人がロトの様な 義人であっても、
当然の様に滅ぼされてしまう、そう語られているのです。
この日、ロトは、「私は義人だから、ソドムにとどまっても、災いが私に襲うことはない」などとは言いませんでした。逆に娘たちと一緒に命がけで逃走し、遠くへ逃げ山までたどり着いて何とか、その命を救ったのです。彼にとり、
ソドムへ残り、なおかつ命を救うという選択肢はなかったのです。もし、彼が
どこまでも強情を張ってソドムへ残ったなら、間違いなく命を失ったことがわかるのです。
そして、終末の日においても話は同じなのです。
もし、私たちがロトの様に命を救いたいと願うならば、彼の様に命がけで、ソドムから逃げ、ソドム化した教会から離れ、その災いに巻き込まれないようにすべきなのです。
どこまでもこの教会にとどまるなら、必ず必ず命を失い、永遠の命を失うようになる、そう聖書は語っていることを知ってください。たとえ、私たちが義人であっても
この教会にとどまるなら必ず命を失い、永遠の命を失うようになるのです。
主が終末に関して語り、警告するとき、そのポイントは、都を出る、家に入らない、など裁きや災いに巻き込まれないことを強調していることを思い出してください。
たとえば、以下です。
マタイ24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
この箇所で、主は「屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。」として、家、背教の教会に戻らないことを語られました。
また、「畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」と
同じく背教の教会に戻らないことを警告したのです。
また、「ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」として、何しろ背教の都や教会から逃げることを強調したのです。
その理由はこの背教の教会への裁きに巻き込まれないためです。
ですので、終末の日の大事なポイントは背教の教会から出ること、その
災いに巻き込まれないことなのです。
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
ロトは、ソドムから逃げ出し、ソドムから出て行きました。その結果、もうソドムには10人の義人さえいなくなりました。神はアブラハムにもし、10人の義人がソドムにいるなら、滅ぼさない、と約束されたのですが、その10人の義人さえ、今はいなくなってしまったのです。そして、この町は神の前に滅びやさばきに値する町となってしまいました。同じように終末のソドム化した教会からも義人が去るようになるでしょう。
御使いはロトがツアオルへ逃げることを了承し、こういいました。
「あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」ですので、
義人が逃れるところへ逃れるまで、ソドムの裁きはおきません。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
ロトが町へ逃げ込んだあと、ソドムは神の火で滅ぼされました。このことは恐ろしいできごとであり、実際に起きたできごとです。イスラエルにある 死海とは、このソドムの跡なのです。
そして、このソドムのできごとは単に過去歴史に実際に起きたできごとである、
というだけでなく、終末の日に再現する、このことを覚えてください。
終末の日、ソドム化した教会の裁きはどのようにして行われるのでしょうか?
ソドムの裁きに関してはこう書かれています。
「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、
これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」
硫黄の火でソドムゴモラが滅ぼされたことが書かれています。
さて、黙示録にも、硫黄に関する記述があります。以下の記述です。
黙示録9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
9:16
騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
9:20
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
9:21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。
ここでは、硫黄の災いが終末の日の背教の神の民に臨むことが描かれています。この箇所を少し見ていきましょう。
9:14その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
ユーフラテス川は旧約の神の民の領土の境界線として用いられていました。そして、それはたとえの意味合いがあります。
新約の神の民も実は川により、この世の未信者の人々との間を区分されています。
それは、聖霊の川であり、聖霊の水なのです。
その聖霊の川であるユーフラテスは過去の教会時代においては、神の民を恵み、
強め、命を支える川でした。しかし、黙示録の時代、背教の時代においては話は変わり、その日には、ユーフラテス、聖霊の川に対して災いが起こされます。
何を言っているのかというと、聖霊のかわりに御使いが解き放たれ、悪い御使いが解き放たれ、教会に悪霊が働くようになるのです。
ユーフラテス川に関して黙示録には他にも記述があります。以下です。
黙示録16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。
16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
16:14
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
ここでは、ユーフラテス川の水が枯れてしまう事が書かれています。
すなわち、終末の日にクリスチャンの背教とあいまって聖霊の働きが枯渇して
しまうことがわかるのです。
ユーフラテス川は、神の民の国の境界線:それは未信者とクリスチャンとを区分する聖霊のたとえ
そして、それと連動するかのように、その後で、「しるしを行なう悪霊どもの霊」が
出てくることが書かれています。ですので、終末の日には、
背教の教会から、聖霊の働きが枯渇するようになります。
そして、それにともなって聖霊ならぬ悪霊の働きが教会で起きてくる、
しるしと不思議を行う霊として起きてくることがわかるのです。
このことは、もうすでに現在の教会で実現しています。
ペンテコステ系の教会で、しきりに行われる金粉、金歯のリバイバル、笑いのリバイバルがこの悪霊の働きなのです。
9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
ユーフラテス川は先ほど書きましたように、聖霊の働きのたとえと
理解できます。したがって、ここで、解き放たれた4人の御使いの災いも
霊的なものと理解できます。
それらの悪霊の働きを通して人が殺されていきます。
9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
騎兵はこの災いと関係があるのでしょう。この2億の数はこのしるしと
不思議のリバイバルに惑わされるクリスチャンの数ではないかと
思われます。今、ペンテコステ系の信者の数が増えていますので、
ありえる数かと思われます。
ベニーヒンの悪霊的なリバイバル:ソドム化した教会は悪霊のリバイバルに席巻される
9:17
私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
ここに「硫黄」ということばが出てきます。
そして、このことばこそ、かつての日、ソドムを滅ぼした「硫黄」と同じことばなのです。
したがって、同性愛を受入れ、ソドムと化した冒涜の教会はその日、惑わしの火、霊で倒され、硫黄の災いで滅びていくのです。
この災いは霊的なものなのです。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
この惑わしの霊のリバイバルの中で多くのクリスチャンが霊的に殺され、滅ぼされていきます。彼らはラオデキヤの教会の様に豊かになった、富んでいる、足りないものは何もない、といいながら、その実神の前にはみじめなもの、裸のものに過ぎません。
黙示録の騎兵:それは、終末の日の霊的な災いをあらわす
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
尾や頭の意味合いは以下のことばから理解できます。
イザヤ 9:14 そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。
9:15 そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。
頭は教会、教団のリーダーであり、尾は、預言者です。
ですので、この騎兵の軍隊は確かに教会と関係があるのです。
しるしや不思議を求めるキリスト教の団体、軍隊です。
9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
ここでは、悪霊を拝む罪について書かれています。
繰り返していいます。今、ペンテコステ系の教会を初めとして行われている
いわゆるしるしや不思議を伴うリバイバルとは聖霊からのものでなく、悪霊からのものです。これらの働きに追随することは悪霊を拝む罪に通じ、まさにこの箇所で主が警告している罪なのです。
「金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け」
ここで書かれているのは、たとえであり、器崇拝の罪に関して書かれています。
いわゆる、しるしや不思議、預言を行う器を崇め、神のことばやその正しい教理を打ち捨て怪しい教えに従う人々こそ、この偶像崇拝者なのです。
9:21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。
殺人とは兄弟を憎む罪です。また、魔術に関してですが、
今のキリスト教会には知らないうちに、魔術的な教えが教会に取り込まれています。
たとえば、何度も同じ事を繰り返して祈る魔術的な祈り、
ヤベツの祈りなどです。また、ペンテコステ系の教会を始めとした教会で
行われている、しるしを強調して神のことばを改ざんしたり、教理を曲げることは、
神のことばを盗む罪なのです。
これらの罪を悔い改めないなら、神からのさばきに入ります。
ですので、終末の日のソドム化した教会には火が下りますが、それは、
火山の噴火の火ではなく、そうではなく、火、悪霊の惑わしの火であることがわかるのです。
その惑わしの中で永遠の命を失っていくことがわかるのです。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
さて、ロトと一緒に逃げたはずの妻なのですが、彼女は後ろを振り返ったために、
塩の柱になってしまいました。
このことを通しての教訓は何かあるのでしょうか?
御使いは逃げる前に後ろを振り返るな、と警告し、事実ロトも娘たちも後ろを振り返らず、逃げ、その命を救ったのです。しかし、一人ロトの妻だけは、後ろを振り返り、結果として命を失いました。このことを通して主が語っていることがあるように思えます。
ところでというか、何故この妻は後ろを振り返ったのでしょうか?
察するには、彼女は、ソドムに心が残っており、ソドムに大事なもの、心を奪うものがあったのでしょう。そして、それを惜しいと思っていたのでしょう。それで、
思わず知らず、後ろを見てしまい、振り返ってしまったのです。
そしてこのことは、終末の日、ソドム化した教会から、出ようとする我々への警告です。我々ももし、この妻の様にソドム化した教会に心を奪うものを残し、そこに心を費やしているなら、妻と同じく、滅びに入る可能性があるように思えるのです。
然りは然り、否は否として、ソドム化した教会への区分をはっきりと心に持つ必要があるのでしょう。この箇所と似たような箇所がマタイ24章にあります。
振り返るロトの妻
マタイ24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
ここでは、その家、滅ぼされるべき、背教の教会に着物が惜しいからといって、戻るべきでないことが語られています。着物はたとえであり、牧師の教区や教会をさすように
思えます。教会の報酬があるとしても、はたまた、多くの信者数の教会が与えられたとしても、しかし、それに未練を持ち、どこまでも背教した教会にとどまるべきではないのです。このことを知りましょう。
結論として、来るべき教会のソドム化に関連して主の語られた強調点、ポイントは一つであり、それは、
ロトに語られた警告、「山へ逃げなさい」のことばの通り、私たちはその背教の教会を出るべきなのです。そして、仮庵の祭りにあるように、地下教会を作り、そこにとどまるべきなのです。このことを知りましょう。
仮庵の祭り:地下教会の型
―以上―
終末に関する学びは以下へ:
エレミヤの部屋
レムナントキリスト教会