けれども、我々がパリサイ派ユダヤ教徒の『タルムード』その他の経典のなかで、イエスがどのように描写されてきたかを知るなら、このたぴのパチカンの「変更」の道筋は、すこしも難解ではない。今回の表現は、ユダヤのプログラムのなかでは、一つの過渡的形態、通過点にすぎない。最終目標は、「イエスの死の責任はイエス自身にある」とバチカンに宣言させることである。しかし、それは何を意味するのだろうか。これを解くことはすこしもむずかしくない。「イエスは悪いことをした」「イエスは罪を犯した」「ゆえに死刑にされたのだ」「それは当然のことだったのだ」という意味なのである。
けれども、キリスト教徒がこの論理を認めることは、キリスト教徒の自己否定、自殺行為ではなかろうか。「神のひとり子イエスは、罪なくして殺された」、これがキリスト教信仰の根本前提であることくらいは、キリスト教に無縁な我々日本人にも丁解できる。つまり、イエスは罪を犯してその当然の報いと
して殺されたなどと認めてしまえば、キリスト教の成立根拠が根こそぎ消滅してしまうほかない。
四つの福音書に描写されているように、当時のユダヤのパリサイ派(サドカイ派も)の祭司たち、ラビたちは、まさに、ナザレの大エイエスが、パリサイ派の神と律法を冒涜したがゆえに殺されねばならないと弾劾し、イエスをローマ帝国の総督ビラトに対して告発したのではなかったか。いまや、パチカン自らが、この論理に近づきつつあるようである。