54 イエスの死の責任はキリスト教会にある

一九九二年秋、ローマ法王庁は『教理要綱』(全世界のカトリック信徒の信仰の基準となるべきもの)の改定版を完成して公表した。キリスト教関係の新聞によれば、そこでは「イエスの死の責任はキリスト教会にある」(っまり、これまで二千年近くにわたって維持されてきた「イエスの死の責任はユダヤにある」という教会の主張を捨てることを意味する)と記述されているという。内実を知らない第三者は、この報道を何気なく読み過ごしてしまうかもしれないが、多少でもキリスト教について知識と関心のある者には、これは信じがたい変事(凶事といってもよい)であろう。そして、日本人の九九パーセントは、キリスト教についてごくごくわずかな知識しかもっていない。このレベルで判断する限り、前記の命題は意味がまったく通じない。

けれども、我々がパリサイ派ユダヤ教徒の『タルムード』その他の経典のなかで、イエスがどのように描写されてきたかを知るなら、このたぴのパチカンの「変更」の道筋は、すこしも難解ではない。今回の表現は、ユダヤのプログラムのなかでは、一つの過渡的形態、通過点にすぎない。最終目標は、「イエスの死の責任はイエス自身にある」とバチカンに宣言させることである。しかし、それは何を意味するのだろうか。これを解くことはすこしもむずかしくない。「イエスは悪いことをした」「イエスは罪を犯した」「ゆえに死刑にされたのだ」「それは当然のことだったのだ」という意味なのである。

けれども、キリスト教徒がこの論理を認めることは、キリスト教徒の自己否定、自殺行為ではなかろうか。「神のひとり子イエスは、罪なくして殺された」、これがキリスト教信仰の根本前提であることくらいは、キリスト教に無縁な我々日本人にも丁解できる。つまり、イエスは罪を犯してその当然の報いと
して殺されたなどと認めてしまえば、キリスト教の成立根拠が根こそぎ消滅してしまうほかない。

四つの福音書に描写されているように、当時のユダヤのパリサイ派(サドカイ派も)の祭司たち、ラビたちは、まさに、ナザレの大エイエスが、パリサイ派の神と律法を冒涜したがゆえに殺されねばならないと弾劾し、イエスをローマ帝国の総督ビラトに対して告発したのではなかったか。いまや、パチカン自らが、この論理に近づきつつあるようである。