48 エズラ・パウンドはアメリカへの反逆者だったのか?

エズラ・パウンド(一八八五−一九七二年)は、アメリカの生んだ最大の詩人と評価され、また、エリオットその他の多くの弟子たちを育て、そのうちからは三人のノーベル文学賞受賞者が出ている。この評価は日本でも同様らしく、「日本エズラ・パウンド協会」というパウンドを研究する英米文学者たちの学会までできているほどだ。実際、パウンドの足跡は、アメリカに限定されていない。若くしてロンドンに渡り、次にパリヘ、そしてイタリアに住み、二十世紀前半の欧米文学界の台風の目であり続けた。ところで、このパウンドは、一九三○年代にヨーロッパのファシズム、ナチズムの台頭ととも
に、それに強い共感を寄せた。

当時のアメリカの世論調査では、パウンドに代表される参戦反対が八五パーセント、ルーズベルトの参戦政策の支持者は、わずか一五パーセントにすぎなかっ第二次大戦にアノリカが参戦するや、パウンドはファシスト・イタリアのムッソリー二政権と協定して、ローマから英米両国民に対するラジオ放送(「反英米宣伝放送」)を行なった。

このため、戦争終結とともに彼は逮捕サれ、アメリカに移送されて「国家反逆罪」で裁判にかけられるが、「精神異常」ということで、ワシントンの病院の精神病棟に十二年五力月幽閉されるのである。結局、パウンドはアメリカの愛国者(連作「キャントーズ」ほかによって「愛国詩人」ともいわれた)であったのか、反逆者であったのか。

私はフィリス,ポットムの評する「二十世紀の文学史のなかで、エズラ・パウンドは詩人としてではなくて、兆しを告げる人として知られ、また評価されるだろう」人物であったと考えている。それを伝えるものは、意外なところで日本(およぴ東洋)と深い縁をもっていることだ。それは、明治時代に来日して並々ならぬ日本・東洋文明へのほれ込みをみせたフェノロサとの関係でパウンドはフェノロサの遣作である『詩の媒体としての漢宇考』を編集して出版しており、両人は欧米の全知識人、学界、思想界に異を唱え、アルファベット式表音文宇よりも漢宇のほうが文字として、また詩の媒体として格段に優れていることを論証している。案外に日本は、アメリカの内部でユダヤと戦うアノリカの愛国者、キリスト教徒のなかに、心強い友人と同盟者をもちうるのではなかろうか。もし、日本が日本の魂を取り戻し、イエス,キリストの真の教えを理解し、それを日本精神(日本文明)のなかに包容しえたら、という条件付
きではあるにしても。そして、そうなるための糸口の一つが、このエズラ・パウンドの真価を日本人が発見することではなかろうか。