そしてすべてユダヤ人の書、ヘプライ語の書物から忠実に独訳し、いっさいのキリスト教徒に与うる信頼すべき報道」という非常に長いもので、これだけで同書の内容はほぼ推察できる。アイゼンメンガー教授は、この執筆にあたってユダヤ学者の図書百九十六種、キリスト教徒の洗礼を受けたユダヤ人の図書八種を参考にしたという。ちなみに、同書はヘプライ語の原文とドイツ語訳文が並記してある。また、同教授は幼時、オランダのアムステルダム(ここは当時すでにユダヤの牙城であった)で修学したが、このとき、あるユダヤ学者がイエスを冒涜することをいい三人のキリスト教徒が割礼を受けてユダヤ教に改宗したことを見、これに義慣を感じてユダヤ教の研究を生涯の事業とする志をたてたものである。アイぜンメンガーのこの著作が、フランクフルトのアム・マインで公刊されると伝わるや、同地のユダヤ人はさまざまな防害に出た。まず著者に一万二千グルデン(この金額が現在に換算してどのくらいになるかは不明だが、おそらく数憶円というオーダーであったことだろう)を提示したという。
そして、これが拒絶されるや、ウィーンの宮廷ユダヤ人を通じて皇帝を動かし、帝国内での
この書の販売を禁じ、出回ってしまったものは即座に店頭から回収した。なお、アイぜンメンガーは一七○四年、ユダヤの毒殺を噂されながら、わずか五十歳で死んだ。現在に残るものは、彼の遣族がプロシア国王フリードリッヒー世に公刊を依頼して、ケーニヒスベルクで出版されたものである。また、その四十年後にフランクフルト版も再販された。だが、ユダヤ人は、その後いくたぴも同書の販売禁止を請願するために、一七八七年、ベルリンの大審院は当時の有名な東方学者チュヒゼン(一七三四年〜一八一五年)の意見を徴したが、彼は「アイゼンメンガーのユダヤの古典文書からの抜粋は忠実に翻訳されている。ユダヤ学者の述べた言葉を不合理だと、ユダヤ人自身がいうことはできまい」と判断した。こうしてアイゼンメンガーの著作は、現在でも古典としての価値を有しているのである。