この説を受け入れたとすれぱ、キリスト教の峙代が終わることを、キリスト教徒は認めなければ
ならなくなる理屈である。しかし、いったい、水がめ座の時代=新しい時代は、何が新しくなるのだろうか。ニューエイジの父は、ある種の超人、神人への人間の進化を説くティエール・ド・シャルダンという、イエズス会の神父だという。ニューエイジの源をたどってゆくと、「イエズス会」に突き当たるわけだ。「イエズス会」は「パチカンの忠実な番犬」であると世間から思われている。だから、「イエスキリストの再臨」は、イエスがほんとうに再臨することではなくて、現代の人間がそのままキリストになること、神性を得ることを意味するなどとニューエイジの思想家から聞かされると、これは奇妙だ、と思わざるをえない。
ニューエイジ派は、「イエスは戻って来ない(イェスの再臨はない)」と断言しているらしいのだ。これは、キリスト教の根幹を、あっさりと捨てること以外のなにものでもない。彼らは、イ工スを厄介払いして、「我々はイエスなしでやっていける」、イエスなしでも地上天国を自らの手でつくれる(それを彼らは「世界新秩序」「世界政府」「世界統一宗教」によって実現するのだという)と説くもののようだ。キリスト教の外に立つ第三者にも、このニューエイジ派の教義(ドクトリン)がイエス以来の
キリスト教会の全否定を狙っている、ということは理解できる。しかしこの考え方は、聖書では悪魔、ルシファーのものとされていたのではなかったか