30「典礼」の崩壊とカトリックの伝統の完全な死

第ニパチカン公会議で採択された『典礼憲章』、そして、「修道生活の刷新・適応に関する教会」などの決定によって、世界中のカトリック教会の「典礼」(教会における宗教的儀式のやり方など)の崩壊(いや、むしろ、上からの厳命による無茶苦茶な破壊)が始まったようだ。もっとも重要で根本的な例を一つだけあげよう。これまで二千年近くの間、カトリック教会では、前方の祭壇に神(三位一体)がいますものとして、この三位一体の神に向かって司祭が祈りをささげる(つまり、信者に背中を向けることになり、司祭も信者もともに神に向かって祈る)のが、典礼であった。

ところが、なんと第ニパチカン公会議以降は、公会議決定の権威の名のもとに、司祭が祭壇に背中を向けて(つまり神に背を両けて)、信者に顔を向けて祈るように変えられたといわれる。カトリックの信者でない第三者の立場からも、ここには、なにかしら本質的な変質があるといわないわけにはいかないだろう。むしろ、変質というよりは、カトリックの伝統はまったく死んで、まるっきり正反対のものにすり替えられたというべきではなかろうか。これでは、まるで手品で非信者の目で見ても、いままでは、教会には三位一体の神(神、聖霊、イェス)が現に臨在さ
れているとして、それは神聖な場所であったものが、どうして第ニパチカン公会議は、その教会の神聖性を放棄することを決めたのだろうか。

いずれにせよ、第ニパチカン公会議以後のバチカン当局は、教会の神聖性を抹殺するように下部を指導しているようなのだ。これほどの根本的な変化が、いかなる理由づけでバチカンによって推進されたのだろうか。それは、「教会を世界(世間、世俗、俗世間)に向かって開く」という理屈なのだ。つまり、世間の風を、カトリック教会のなかに入れようということらしい。この「世間の風」の正体は、実はイエス・キリストが福音書のなかではっきりと「サタン」と名づけたものではないのか。

したがって、いま、バチカン当局が推し進めていることは、教会からイエス・キリストを(そして聖母マリアをも)追放して、反キリストを教会に招き入れることではなかろうか。そういえば、この二十年来、日本のカトリック教会でも、いっせいに聖母マリアの像を破壊したり、燃やしたり、倉庫の陰に放り込んだりする現象がみられるというのだが...。