23 カトリックが自らに「死刑宣告」を下した第ニバチカン公会護

「世俗」という言葉は、日本人のなかではあまり強い印象を与えないが、英語のセキュラー=世俗は、キリスト教社会では、たいへん強烈な響きをもっているといわなければならない。

イエス・キリストの弟子になる、ということは、世間を否定し、俗人の生活を捨てることを意味している。世俗を捨てたものが、イエスの使徒となり、福音を地の果てまで伝え、イエスの主権をこの地上に立てる(神の国を打ち建てる)、というのが、キリスト教の主眼であろう。そして、イエスの十二使徒の首位に立つペテロが、イエスの指名によってローマ教会の長となり、その後、司教たちの選挙によって後継者が決められてきた。つまり、キリスト教というものは、決して世俗の国家、世俗の権威、世俗の風習に迎合してはならず、世俗の上にいなければならないとする。

なぜなら、世俗人は罪の状態で生きており、そのまま放置すれば、必ず罪の上に罪を重ねることになるからだ。したがって、教会が世俗化することは滅ぴに至る道となる。キリスト教の教義の核心中の核心ともいうべき、イエスの〃山上の垂訓〃(「マタイによる福音書」第五、六、七章)を素直に読むだけで、誰でもキリスト教の精神が理解できる。もしも、キリスト教の末端の信者でなくて、キリスト教会そのものが世俗の権威などに屈伏するようなことがあれば、それはキリスト教終焉のときであろう。第ニバチカン公会議は、カトリック教会の世俗化の道程を完結する、合法的手続きであったら
しいのだ。

カトリック教会世俗化の完了は、イエスの教え(山上の垂訓)が、完全に葬り去られることを意味している。つまり、カトリック教会の「死」である。してみると、第ニバチカン公会議は、カトリック教会が、自分自身に死刑宣告を下す場であったということになってしまうのだ。「今日、人間は、技術的・科学的な進歩に酔いしれて、自分を神の玉座にすえ、世俗的な一つの新しい文明をつくりました。神を根本的に否定することそのものが、現代社会の真の天罰となっているのです」(「司祭のマリア運動」での聖母のお告げ)。どの時代にも、世俗主義は人間のもっとも低次元の欲念と欲望を至上のものとしてきた。イエス・キリストが「悪魔」と名づけたものは、実は現在の技術的・科学的進歩に酔いしれている世間の風潮であったらしいのだ。