そして、第一パチカン会会議から約百年を経て、一九六二年十月十一日、第ニパチカン公会議の開会式が二千五百四十人のカトリック聖職者の列席のもとに、バチカンのサン・ピエトロ寺院で行なわれた。これは世界各地から来た一千人の報遣関係者によって、その模様が逐一知らされたというのだが、おそらく、この開会式、また一九六五年十二月八日の閉会式、さらには三年余(四つの会期がある)の百六十八回の総会での討論と、そこで決定された各種の憲章や宣言などについても、ごくわずかな例外を除き、日本人は何も知らないままでいるのではなかろうか。
一九六二年から六五年というと、昭和三十七年から四十年にあたる。池田内閣の高度経済成長と東京オリンピック、テレビ時代の開幕を思い起こさざるをえないが、実はこのころ、ローマではカトリック(いや、キリスト教会そのもの)を根底から引っくり返す(葬り去る)ような、大がかりなドラマが進行していたのだった。
この公会議の前とあとではカトリック、というより全キリスト教会およぴキリスト教が優越的な地位を占める、ョーロッパとアメリカなどの諸国の世相は、はっきりとさま変わりしている。だが、一九六二年十月〜六五年十二月という年代を、さらには、一九六五年十二月八日以降という年代を、これまで日本人はまったく意識してこなかった。第ニバチカン公会議の主要なイメージは、「アジョルメント(現代化)であり、「世界に開かれた教会」であり、「ユダヤ教徒=ユダヤ民族との和解」であるとされる。その真意は、イエス・キリストの教えの最終的な消滅への号砲であったらしいのだが……。