9『聖書』も法王もイエスも選ばない〃イエズス会の選択〃

「もしも、聖書とローマ法王が矛看衝突した場合は、聖書を投げ捨てて、ローマ法王の命令をとらねばならない」と、イエズス会の『カテキズム(教理問答集)』は答えている。一八七○年の第一バチカン公会議は、「ローマ法王の絶対的無謬説」を決定している。となれば、イエズス会がバチカンを握り、ローマ法王を動かしているとしたら、はたしてどうなるだろうか。イエズス会は、ローマ法王を操作して聖書を有名無実とし、事実上、聖書を否定することもできるのではなかろうか。

第一バチカン公会議のこの決定は、実は、イエズス会本部と、それを背後で操作しているものたちの絶対的無謬性、そしてさらには、イエスの言葉自体を否定し、批判する権限を宣言しているのではなかろうか。つまり、イエズス会(そのトップ・総長)こそ、イエスの上に立つ存在である、ということにさせてしまうのである。これは、まじめなキリスト教徒にとっては、驚くべき恐怖の結論だが、真相はどうなのか。「イエズス会は、今日、ローマ教会の真の主人である」(L‐ベットナー、一九六二年)ともいわれていることが、その真実を物語っていよう。では、聖書(イェス)と、イエズス会が矛盾対立

したらどちらをとるか?イエスを捨てて、イエズス会総長をとれ。これが、イエズス会の本音ではないか。しかし、もしイエズス会が、ユダヤがパチカンに放ったトロイの木馬であったとしたら、いったい、どういうことになるのだろう。イエズス会は、ローマ法王庁を、すこしずつイエスの教えから引き離して、ユダヤ教のほうに導いているのではなかろうか。第一バチカン公会議の「法王絶対無謬説」の真の意味も、この背景からみて初めて、理解しうるのではなかろうか。

ここでようやく我々は、十六世紀以来の「バチカンの世界戦略」の実体が、「イエズス会の世界戦略」であったことに気づくのである。イエズス会という軍隊は、誕生以来、ローマの名のもとに、バチカンの陰に隠れて、なにか得体の知れない目的のために戦い続けているとみなけれぱならない。我々は、十六世紀前半のョーロッパ、とくに一五一七年(ルーテルの挑戦)から一五四○年代に至る三十数年を、イエズス会の出現を含めて、改めて注意深く見直すことが必要だ。舞台の役者たちを演出している影の人々、これが実は、世界征服に乗り出したユダヤ地下世界政府だったのではなかろうか。そして、イグナティウス・ド・ロョラは、この大計画のなかの一人だったのではないか。