ユダヤと日本の風習(2)

 *きのえとらの年

 ちなみに、神武天皇は「きのえとらの年」に即位されましたが、この「キノエトラ」という語は、れっ
きとしたヘブル・アラム語で「トーラーを授かった」という意味になる様です。
 

*三種の神器=マナの壷と豊受大神

 

 旧約聖書には、放浪中のイスラエルの民が、飢餓に襲われた際に、天から降りて来たという「マナ
(Manna)」と言われるパンの事が、幾つか記述されています。

        イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その
       味は密を入れたせんべいのようであった。

  モーゼは言った。「主の命じられるところはこう
       である。「それを1オメルあなた方の子孫の為に蓄えておきなさい。それは私が、あなた方
       をエジプトの地から導き出した時、荒野であなた方に食べさせたパンを彼らに見せる為であ
       る」と。
                                                              -『出エジプト記』第16章31節〜32節-

 上記のマナの壷に関してですが、中山忠直氏の説では、聖書中の「1オメル」という単位が、外宮の神
宝のカメと同じ寸法であること、その内部には、パンのようなものが風化したものが入っていた事などか
ら、マナの壷は伊勢神宮の外宮祭神・豊受大神はヤハウェであり、またマナの壷もそこに保管されてい
る。という説を提唱しています。

 ところが、有名な天の橋立のある、元伊勢の籠(この)神社の宮司、海部光彦氏は「旧約聖書」に出て
くるマナの伝承とは、真名井紋(まないもん※ダビデの紋と同一)と関係があるらしい、という事を述べ
ている様で、更に丹後周辺には昔、丹後王朝が存在し(これについては別件で学校の先生が丹後王朝の可
能性を指摘していて、その著作物もある)豊受大神をを広く信仰していた。という事の様です。

 この籠神社の関係者の証言によると、特殊な信仰形態をもった丹後一族を大和朝廷が治める為に、豊受
大神を祀るしかなかったそうで、わざわざ御神体を伊勢に還った際にも、伊勢に渡ったと見せかけて、明
治時代までは籠神社に、本物の神宝は保管されていたという事です。
 もしも、これが本当であるなら、中山忠道氏の見た「マナの壷」とはレプリカで、本物は未だ籠神社に
あったという事になります。ちなみに、この関係者は、豊受大神とはユダヤの神であると証言していると
いう事です。この点に関しては中山氏の説と、同一のものです。
 

*三種の神器=失われたアーク

 
日本の「みこし」と、ユダヤの契約の箱(アーク)とは非常に似通っている
ものです。寸法も縦2.5アンマ(約1m12cm)横1.5アンマ(約67cm)高さ1.5アンマ(約67cm)この寸法の箱
を金で覆い、更に四隅に担ぐための棒をアカシヤ材で作り、箱の両側に付けた輪に通し金で覆う。という
ものです。

 伊勢神宮の皇大神宮にある箱は、年に一度だけ、真夜中に祭主が至聖所に入り、箱の方向を変えるとい
うな習わしがある様で、中を見る事は固く禁止されているそうです。
 遷宮の行列でも、周りを幕で覆われているので、まだ誰も見た事が無い(祭主以外)という事になって
います。これは、一度だけ明治維新の際に例外があり、政府が位つけの為に確認したとの事です。

 この覗いてはいけない、という習わしも理由はいまひとつ定かではないですが、旧約聖書の中にも(サ
ムエル記6章19節)「主はベテ・シェメシュの人達をうたれた。主の箱を見たからである」という様に、箱
を覗くと厄災が起きたというくだりがあります。
 この三種の神器は、いわゆる日本の伝承にある三種の神器を指していますが、ユダヤの契約の箱を彷彿
とさせるものです。
 
 
 

 *三種の神器=アロンの杖と豊受大神

 

 旧約聖書の中には、神が祭司を選ぶとき、ユダヤの部族の長たちの杖を、契約の箱の前に置いて行かせ
ると、一本の杖から芽が出てきて、神は芽の出た杖を持つ者こそ、祭司の資格のある者だと語った。とい
う伝承があります。
 この杖を称して、三種の神器の一つ「アロンの杖」と呼ぶのですが、この伝承に非常に良く似たもの
が、日本に存在します。

 玉造稲荷神社の祭神、豊受大神の神殿(※現在は玉造稲荷)の伝承には、蘇我氏と物部氏の決戦の時
に、聖徳太子が玉造稲荷に詣でて「もし、この決戦に勝つなら、この枝に芽を生じさせたまえ」と祈り、
栗の木の枝を折って差し込むと、枝に芽が出た。というものです。
 
 
 
 

*過ぎ越しと日本の正月

さらに、日本とユダヤの正月の行事もよく似ている。日本人は大晦日になると夜遅くまで起きて、日付けが変わると神社に初詣でに出かけ、家の前に門松を飾り、元旦から7日までが正月の期間となっていて七草がゆを食べたりする。それと同じようにイスラエル人も、一晩中起きて新年を迎え、7日までが過ぎ越しの祭りとなっており、門には常緑樹を飾って、苦菜を食べたりする。日本人が鏡もちを重ねて飾って食べるように、イスラエル人も小麦粉を練って作ったマツォという丸く平べったいモチ状のものを重ねて供えて食べたりする。このマツォという言葉が濁ってモチになったとも言う。
 

*失われたイスラエル民族

イスラエル10支族についての記録は、紀元前6〜5世紀ごろに突如、聖書からも世界中の歴史からも消えてなくなり、その後どこへ行ったのかは世界史の謎とされている。しかし1世紀に記された古代ユダヤ史という書物には、「10支族は今でもユーフラテス河の彼方におり、膨大な民衆となっている」と記されており、ユダヤ人たちの住んでいたパレスチナからみてユーフラテス河の向こうとは、東方のアジアにあたる。
 その頃の中国には、漢民族の他、南方系の少数民族、そして北方系には多くの遊牧騎馬民族が存在していたが、騎馬民族は、閉鎖的な農耕民族と違って開放的で、異なる民族や宗教を受け入れたりする傾向があるらしく、例えばモンゴル帝国にはユダヤ教、仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、ラマ教など様々な宗教が混在していたと言う。
 もともと騎馬民族のように馬を乗りこなして羊を追う遊牧民だったイスラエル人が、こうした騎馬民族の中に混じり、やがては朝鮮半島を経て日本にやってきたと考えることができる。
 また、騎馬民族は文字も持たず記録も残さないため、その騎馬民族にイスラエル人が混ざっていったことにより、世界史からイスラエル10支族の記録が消えたという考えも成り立つことになる。

 *移動するイスラエル幕屋と日本神宮の遷宮

 幕屋は移動し、宿営地にて設立してはとりつぶし、更に新たな地で建設を繰り返した。伊勢神宮を、20年毎に総額 350億円以上の経費をかけて遷宮する行事の由来は、幕屋の建設と移動と重ね合わせて見るならば合点がいき ます。
また拝殿で手を叩く風習「ョォー」の掛け声と共に、一同が手を打つ行為など、古代イスラエルでも約
 束のしるしとして、手を打ったのです。「誓約をなし」の直訳は「手を叩き」であるのです(箴言6・1一新改 訳聖書欄外注)。従って、心からの誓約をすることにあり、そこから「家内安全、無病息災」等の願いをこめて
 手を叩くようです。これは、幕屋に生き、幕屋に住む事を喜びとした神の民の姿に等しいのです。
 
 
 
 

 *日本の神社とイスラエル幕屋

 

・例えば、日本の神社2重構造(拝殿と本殿)がユダヤの幕屋2重構造(聖所と至聖所)と同じ構造にな
っていることや、共に御神体のみで偶像が祭られていないこと、賽銭箱があることなどが類似点として挙
げられます。
・更に、みこしがユダヤの契約の箱(アーク)と似た形をしており、どちらも神事に関わる男子が肩に担
ぎ、上には羽を広げる黄金色の鳳凰か天使(ケルビム)がいます。そして、移動式神殿の時代の契約の箱
は、置かれた場所が自動的に神殿になったが、固定式神社の日本では、みこしは神社から出て、再び神社
に戻る形を取っています。
・しかし、どちらも神域から神域へ移動する形はそのままです。
・更に、神社では拝むときには大きな鈴かドラ金を太い縄で打ち鳴らしますが、その上にあるしめ縄や、
ジグザグに切った紙四手も、ユダヤと深い関わりを持っています。モーセと共に荒野を移動している際、
移動式神殿の幕屋に現れる神は、雲と稲妻、そして轟きを持って降臨したと記録されています。そのとき
の具象化が、しめ縄(雲)であり四紙手(稲妻)であり、ドラ金と鈴(轟き)なのです。

 神社と雲は密接で「出雲」や「八雲」など神社名に、付けられている場合もあり、偶然では済まされないよう
 です。

 
 ソロモン神殿になると、入口には、鳥居を連想する二本の木柱が立てられました。
 二本の鳥居は、その色はそのままか、朱色です。 なぜ朱色かといいますと、出エジプトの際の災禍の過越しの
 目印にイスラエル人が家の鴨居と入口の二本の柱に塗られた血がモデルともいわれてます。

・神社に付き物のコマ犬も、たて髪をつけたライオンであり、シルクロードを経て伝えられた中近東の影
響がそのまま具象化しています。だから、コマ犬のことを獅子と呼び、めでたい正月には獅子舞がもては
やされるのです。
・また、日本人には時代劇でも出てくるみそぎは、ヘブライの全身を水で清めるバプテスマ(洗礼)で
す。ただし、カトリックやプロテスタントが行う洗礼は、ヨーロッパ式(水を頭に少量かける方法)であ
り、ヘブライ式の全身を水に沈める方法とは全く違っています。
・他にも、名残というように、類似点を挙げればきりがありません。