フランス革命とロシア革命


この2つの革命は繋がっている。それは、どちらも、ユダヤ
の「積年のうらみ」、キリスト教破壊、根絶、クリスチャン殺害を
めざした革命であったから。
ロシア革命を演出、実行したレーニンは、明確にフランス革命を模範としており、
これらは明らかに関係がある。

フランス革命において、小規模、短期間実現した、
ユダヤの願い、タルムードの命令、キリスト教廃絶は100年後のロシア革命において、
さらに大規模に、長期間、徹底して行われた。

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 レーニンが抽出した「フランス革命の教訓」と実行

 

 

 そこでのレーニンの研究視点は、ユニークな側面を持っていました。いろいろありますが、ここでは、
この
ファイル・テーマとの関連で、2点だけのべます。

 第1点は、「蜂起の技術」です。

 ソ連崩壊後に明らかになった「レーニン秘密資料」において、レーニンは、極秘の手紙で、(1)蜂起のた

の司令部の設置、(2)軍隊の配備、(3)臨時政府閣僚の逮捕、(4)カフカスの「野蛮軍団」の制圧など

指示しています。これらは、1871年のパリ・コミューンにおいて、陰謀を図るようなやり方で、蜂起
を組
織したブランキストの戦術に類似しています。
 
 

 第2点は、「蜂起による権力奪取成功後の少数派権力維持機構」です。

 レーニンは、マルクスの「パリ・コミューンの機構分析」という視点だけでなく、フランス革命が「な
ぜ敗
北したのか」という原因を探求しました。その結論の一つが、「ジャコバン公安委員会」「治安委員会」
のよ
うな秘密政治警察機構とその強化、暴力行使なしには、少数派の暴力革命政権を維持できないとするもの
でし
た。「公安委員会」は、9人で構成され、ロベスピエールは、1793年7月に公安委員会に入りまし
た。そ
れ以後、その機関は、革命政治の軸になりました。公安委員会は、戦争指導だけでなく、行政権を握り、
警察
権を治安委員会にゆだねる以外は、行政権限を一手に収めました。
 
 

 レーニンは、「十月革命」において、「フランス革命の教訓」を厳密に実行しました。1917年11
月7
日、ジノヴィエフ、カーメネフの反対を押切って、ペトログラード・ソヴェト議長トロツキーとともに
「蜂起
の技術」者としての、指揮をとりました。翌8日、ブルジョア政党カデット機関紙『レーチ』とブルジョ
ア新
聞閉鎖措置により、瞬時にブルジョアジーから「言論・出版の自由権」を剥奪しました。この措置にたい

て、左派エスエルをはじめ全他党派が強烈に反対しました。レーニンは、ブルジョアジー弾圧、その権利
剥奪
こそ「プロレタリア独裁=プロレタリア民主主義」であるとして、強行しました。これは、レーニンによ
る最
初の「第1・国家テロ」でした。
 
 

 武装蜂起政権は、同じく翌8日、直ちに内務人民委員部(NKVD)を創設しました。それだけでなく、レ

ニンは、12月20日、「ジャコバン独裁の公安委員会」「治安委員会」を見習った「秘密政治警察チェ
ーカ
ー」を創立しました。これは、「社会主義政権が保有した世界初の国家テロ・オルガン(機関)」でした。チ

ーカーの機構、活動については、下記でのべます。
 
 

 3、レーニン、トロツキーの「テロル」観
 
 

 レーニンの「テロル」観は、(フランス革命の)「ジャコバン派公安委員会」「治安委員会」の思想、形態を「十月革命」
に導
入し、発展させたものです。このデータを、主に、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1』から引用しま
す。
『しかしながら、勝利した革命を守るため結局は採用された弾圧方策は、ボリシェヴィキの指導者たちに
とっ
ては、彼らの日頃の信念にそむいて不本意ながら余儀なくされたものであるとの説をなすならば、それは
また
別種の誤りを冒すことになろう。テロの原理は革命の伝統のうちに深く蔵されている。』(P.130)
 
 

 ロベスピエール 『ロベスピエールは、レーニンもそれに共鳴したであろうような言葉でもって、通常

法律手続きは、革命を守るためには不十分であるとして退けた。「ほかならぬ法律の無力というそのこと
によ
って生ずる危機の時代に、公けの安全のために必要とされる有益な予防手段を判断しなければならない者
が、
刑法典を手にしていることでよいであろうか」。また言う。「平時の人民政府の特性が徳であるならば、
革命
時の人民政府の特性は同時に徳とテロの両者である。徳なきテロは破滅であり、テロなき徳は無力であ
る。
テロとは正義、敏速、峻厳、不屈の謂に外ならず、かくてそれは徳の発露である。」』(P.13
0)
 
 

 『恐怖政治は革命的テロリズムである。九三年十月〜九四年五月の間、革命裁判所の処刑は一万件に達

た。それまでにマリー=アントアネットは処刑されていた。九四年九月に至る一年間一万六千件のうち、
西部
ヴァンデー・ローヌ渓谷七四%、パリ一六%で、叛乱罪が七八%をしめていた。九四年六月、民衆の敵に
対し
ては弁護手段をうばい、死刑のみをもって応じるというプレリアル法が発布された。テロリズムに裏づけ
られ
たモンタニャールの強力支配は、小ブルジョアジーの近代的生産力解放の革命を反革命から防衛する段階
にほ
かならず、単なる逸脱エピソードではない。』(『フランス史・第5章』、井上幸治、山川出版、P.180)
 
 

 『ヴアントーズ二三日(一七九四年三月一三日)、公安委員会は、これに対してサン=ジュストを立
て、外
国の手先となる諸党派に対する提案を行なわせ、「陰謀者、革命の敵に対する新手段を規定する法令」を
通過
させた。これがヴアントーズ三法のうち最後のものであった。(1)公会の諸権能を奪うものは死刑……(
2)
政府に・抵抗するものは死刑……(3)食糧危機を助長するものは革命の敵……』(『ロベスピエールとフ

ンス革命』、井上幸治、誠文堂新光社、1981年、P.203)
 
 

 『それでは、革命テロルの処刑者数はどのくらいであろうか。ドナルド・ダリアは、統計的方法をもっ
て、
この実数を測定し、いままでではもっとも精密な数字を出している。それまで反革命容疑者としてとらえ
られ
たものは、全国で一〇〜三〇万名ぐらいといわれ、処刑者数は三・五〜四万名ぐらいに評価されていた。
ダリ
アは革命裁判所処刑者実数を一六、五九四名とし、パリ革命裁判所はこの一六パーセントを処刑したとい
う。
時期的に見ると、一六、五九四名は、九三年三〜九月、五一八名、一一月〜九四年五月、一〇、八一五
名、六
〜七月、これが大恐怖政治と呼ばれる時期であるが、二、五五四名、八月、八六名と分かれている。』(
『ロ
ベスピエールとフランス革命』、P.236)
 
 

 マルクス 『一八四八年の秋にマルクスは、「反革命の残忍な行為」の後には、旧い社会の血の断末魔

新しい社会の血の陣痛とを短縮し、簡単にし、局部的にするには唯一の方法――「革命的テロ」があるだ
けであると宣言した。そしてその後、彼はハンガリーを「反革命の卑劣な暴威に対するに革命的情熱をも

て、白色テロに対するに赤色テロをもって」勇敢に立ち向った一七九三年以来最初の国家であると称讃し
た。ブルジョア社会は、「今でこそ殆んど英雄的には見えないにせよ」、当時は「自らこの世に生れ出る
ため
に英雄心、自己犠牲、テロ、内乱、血なまぐさい戦場を必要とした」のであった。』(『ボリシェヴィキ

命1』、P.131)
 
 

 『白色テロに対するに赤色テロ』という用語を“発明”し、称賛したのは、マルクスです。彼は、『赤
色テロル』思想開発の先駆者です。ボリシェヴィキは、1918年9月から、マルクスの“偉大な示唆”

掘り起こして、『赤色テロル』政令を発令し、言葉だけでなく、実際に殺人テロを大展開しました。
 
 

 エンゲルス 『カウツキーの「恐怖政治と共産主義。革命の自然史への一寄与」(一九一九年)はボリ

ェヴィキのテロに対する痛烈な攻撃であった。カウツキーは後期のエンゲルスからいくつかの章句を引用
した
が、しかしエンゲルスが「プロレタリアートが山岳党の支配のもとに政権を握っていたフランス革命の短
い期
間に、彼らは、ブドウ弾やギロチンを含む利用しうるあらゆる手段を用いて、その政策を実行した」
(『カール・マルクス=フリードリッヒ・エンゲルス、歴史的批判的全集』第一部、第六巻、三四八頁)
と得
心をもってのべている初期の章句を見落している。』(P.131)
 
 

 レーニン 『レーニンは一九二〇年にフランスの共産主義者フロッサールに、「フランス人にはロシア

命において否認すべきものは何もない、というのはロシア革命はその方法その手順においてフランス革命
を再開するものだからである。」といっている〔『ユマニテ』(一九二○年九月十日)〕(P.13
0)。
 
 

 『レーニンは、すべてのマルクス主義者と同様に孤立的なテロリストの行為は無益なものと非難したけ
れど
も、ジャコバンおよびマルクス派の革命理論に立って、原則的にテロを受入れた。「原則として(一九〇一

に彼は書いている)、われわれは決してテロを放棄しなかったし、また放棄することはできない。テロ
は、軍隊の一定の局面および一定の状況のもとでの戦闘のある瞬間においては、完全に有利な必須で
さえある一つの軍事行動である。」』(P.132)
 
 

 『十月革命の二カ月前、レーニンは「いかなる種類の革命政府も搾取階級(すなわち地主と資本家)に
対し
て用いられるものとしての死刑をなしですますことは殆んど不可能であった」ことを部下たちに警告し、
さら
に「百二十五年前フランスのブルジョア大革命家たちが彼らの革命を偉大ならしめたのはテロによっ
てであった」ことを彼らに想起させた。』(レーニン「全集」第四巻、一〇八頁) (P.132)
 
 

 『(1921年3月、クロンシュタット反乱鎮圧開始時点)トゥハチェフスキーは最後の攻撃を準備してい

た。レーニンはこのような暗黒の時にあたって、「これはテルミドールだ。しかしわれわれはギロチン
にかけられたりはしないだろう。われわれはわれわれ自身の手でテルミドールを成就するのだ」とわ
たしの友人の一人に話したのだった。』(V・セルジュ『一革命家の回想・上』、現代思潮社、1970年、P.

80)
 
 

 トロツキー 『「われわれはみがかれた床の上を白手袋をはめて社会主義王国に入って行くのではな
い。」と彼は全ロシア農民代表者大会で述べた。また、立憲民主党(カデット)を非合法化するに際しては、

のようなもう一つの警告を発した。「フランス革命の際には、立憲民主党員よりもっと正直な人々が、
人民に反対したために、ジャコバンによってギロチンにかけられた。われわれはまだ誰をも処刑したこ
とはないし、またしようとも思わないが、しかし人民の憤激が統御し難くなる瞬間はある。」』(『ボリ
シェ
ヴィキ革命1』、P.133)。
 
 

 『新体制が行った捜索および逮捕に関して全ロシア中央執行委員会で難詰されたのに対し、トロッキー

「内乱のさいに一切の弾圧の放棄を求めることは、内乱の放棄を求めることである」とやりかえした。立
憲民
主党(カデット)弾圧の後で、彼はさらに一層不吉な言葉を附け加えた。「諸君は、われわれが階級の敵に対

て行っている控えめなテロに反対している。けれども、諸君は今から一ヵ月もたたないうちに、テロは、
フランス大革命家たちの例にならって極めて暴力的な形となるであろうことを知らねばならない。わ
れわれの敵に対しては牢獄のみならず、ギロチンが用意されるであろう」』(P.133)。
 
 
 
 

 フランス革命の「テロル」を「十月革命」に持ち込むことにたいして、当時も強烈な批判がありまし
た。

 ローザ・ルクセンブルク 『一九一八年十二月にローザ・ルクセンブルクが起草したドイツ共産党の綱

は特にテロを否認していた。「ブルジョア革命においては、殺戮・テロ・政治的暗殺は勃興階級の不可欠

武器であった。プロレタリア革命はその目的のためにテロを必要とせず、殺害を憎悪するものであ
る。」(『ドイツ共産党(スパルタクスブント)創立党大会報告』、1919年)(P.131)。
 
 

 メンシェビキ 『メンシェビキは、一部はプロレタリア革命の直接の実行可能性を信じないことのため
に、また一部は西欧の社会民主主義者と密接な連繋をもっていたことのために、おそらくボリシェヴィキ
より
はテロを用いる傾向が少なかったであろう。一九一八年後に、ボリシェヴィキがはじめてこの武器を他
の社会主義政党に対して用い始めたとき、メンシェビキは西欧の社会民主主義政党と伍して、それに
対する最も激烈な容赦なき批判者に加わっていた。』(『ボリシェヴィキ革命1』、P.131)。
 
 
 
 

 1914年、第一次世界大戦前後で、世界の社会主義運動は、第2インター・社会民主主義政党系と第
3イ
ンター・コミンテルン型共産党系の2潮流に大分裂しました。1917年ロシア革命以後は、コミンテル
ン系
が世界の主流となりました。しかし、1989年東欧革命と1991年のソ連崩壊によって、14の一党
独裁
国とその前衛党のうち、10カ国とその前衛党が一挙に崩壊しました。10カ国の前衛党は、すべて第2
イン
ター・社会民主主義政党系に戻りました。資本主義国前衛党においても、一定の政治的影響力を持ち、か
つレ
ーニン主義諸原則をなお保持しているコミンテルン型政党としては、世界で日本共産党とポルトガル共産
党の
2党が残存しているだけとなりました。これは、20世紀社会主義運動を見ると、レーニン型社会主義運
動の
方が、「短い20世紀」における“分裂組織”であって、“誤った、かつ敗北した社会主義路線”であっ
たこ
とを、歴史的現実として証明したことになります。
 
 

 そこで、その大分裂の原因をいま一度見直す必要が生じます。コミンテルン系が世界の主流の時期に
は、帝
国主義戦争反対・世界革命戦争に転化・自国の戦争予算反対という路線か、それとも、各国の戦争予算賛
成の
路線か、という選択肢で分裂したとされました。議会主義の是非もありました。それらは、歴史の事実で
す。
しかし、隠蔽されてきた、もう一つの中心テーマがありました。それは、「赤色テロル」是認型社会主義
か、それとも「テロル」絶対否認型社会主義か、というテーマです。“革命という目的のためには、革
命権力最高指導者レーニンが「人民の敵」「反革命」と認定した自国民を数十万人も殺すことが許され
る。そ
れを認めるのかどうか”というテーマです。このファイルは、このテーマを探求するのが基本です。
 
 
 
 

 3、ロシア的伝統を受け継いだテロリズム
 
 

 政治闘争の手段として、皇帝・政府高官個人を暗殺する「反国家テロ」を系統的に実施したのは、ロシ
アの
革命運動の伝統です。それを行ったのは、ナロードニキ、アナキストでした。1901年結成のエスエル
も、
「反国家テロ」を闘争手段の柱の一つにしました。エスエルは、テロを実行する「戦闘団」という「特別

織」を作りました。
 
 

 1979年以降の主な「反国家テロ」を挙げます。

 1979年4月2日、ナロードニキは、アレクサンドル2世への狙撃を行いました。これを契機に、ナ

ードニキから「人民の意志」派が成立し、皇帝列車、宮殿の爆破を実行しました。
 
 

 1881年3月1日、ナロードニキの一つ「人民の意志」派が、皇帝アレクサンドル2世を、ペテルブ

グのエカチェリニンスキー運河岸で爆殺しました。
 
 
 
 

                   ペテルブルグのエカチェリニンスキー運河岸における皇帝爆殺

                     これは、『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』

                       に載せた3DCG6枚のうち、文末にあるものです。
 
 

 1887年5月20日、レーニンが17歳のとき、学生たちが、アレクサンドル3世暗殺未遂事件を起

ました。レーニンの兄アレクサンドルらグループ全員が逮捕され、兄を含め5人が絞首刑になりました。
 
 

 1904年7月15日、エスエルが、ヴェチェスラフ・プレーヴェ内務相を、ペテルブルグの路上で爆

を投げ、暗殺しました。これは「特別組織」の「戦闘団」メンバーのエゴール・サゾーノフが実行したも
ので
す。プレーヴェ内務相は、ツアーリの政治警察『第3課(第3部)』を使って、ロシア全土における解放運動

根こそぎ的に弾圧した中心人物でした。
 
 

 1905年2月4日、エスエル党員イワン・カリャーエフが、ツアーリ一族のセルゲイ大公を、モスク

で、馬車に爆弾を投げ、暗殺しました。セルゲイ大公は、モスクワの小専制主として反動的政策を強行し
てい
ました。
 
 

 1906年1月16日、エスエル党員マリア・スピリドーノワが、タンボフ県での農民運動を弾圧して

たルジェノフスキー将軍を、ボリソグレーブスク駅で拳銃で暗殺しました。彼女は、その時21歳でし
た。彼
女は、「二月革命」で解放され、「十月革命」では、エスエル、左派エスエル指導者としてボリシェヴィ
キと
共闘しました。ブレスト講和条約に反対して、連立政権離脱後、「反革命」として、スタインベルグらと
同じ
く、ボリシェヴィキに逮捕・投獄されました。

 これら以外にも、各党派やアナキストがいくつかの「反国家テロ」の暗殺をしています。
 
 

 レーニンにとって、兄アレクサンドルの皇帝暗殺計画加担と絞首刑は衝撃でした。「レーニン神話」で
は、
兄処刑の報が届いたとき、当時17歳のレーニンが、9歳の妹マリアに『いや、われわれはああいう道に
は進
まない。あれは間違った道だ』と言ったことになっています。そのエピソードによって、レーニンが「個
人的
な反国家テロ」だけでなく、「テロル」そのものをもきっぱりと否定し、革命家意識を持ったことが証明
でき
るとしています。しかし、そのエピソードは、妹マリアが数十年も経ってから、初めて話したということ

す。そこには「神話」特有のねつ造の可能性があります。
 
 

 レーニンは、たしかに、陰謀型秘密結社・個人による「反国家テロ・暗殺」を支持、指令したことがあ
りま
せん。しかし、彼は、「テロル」そのものを否定したこともありません。むしろ、上記のように、テロ
ル、暴
力肯定を基本思想にまで高めました。そして、現実に、革命政権最高権力者となってから、彼は、いち早
く、
1917年12月に「国家テロ」オルガン(機関)としてのチェーカーを創設し、ボリシェヴィキ党員・資金

豊富に注ぎ込み、大々的な「国家テロル」を指令し、下記(表)や他ファイルのデータのように、レーニン・ボ

シェヴィキ批判者、異論者、「反乱」者・政党を数十万人も殺害したのです。
 
 

 (フランス革命の)ジャコバン派の「公安委員会」「治安委員会」、エスエルの「戦闘団」、ボリシェヴィキの「チェーカ
ー」
は、条件、実態、性質の違いがあります。しかし、それぞれの革命党派が作った「テロル実行の特別機
関」
という面で共通性を持っています。

 チェーカーは、これらフランス革命とロシア的テロリズムという2つの伝統を受け継ぎつつ、その旧形
態を
とどめないほどの大変身・発展をとげました。
 
 

 レーニンは、権力奪取と同時にチェーカーを創出し、それを20世紀社会主義一党独裁体制の本質的な
国家
暴力装置の一つとしました。レーニンが“製造”したチェーカーは、GPU(OGPU)、KGBと変身、変

を続けました。それらは、ついには、国家の根幹機構を内部から食い尽くし、秘密政治警察国家という巨
大な
怪物(リヴァイアサン)自身となりました。
 
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