共産主義により殺された一億人の人々


 これらの国々の政治体制はそれが例外なしに一党独裁であり(一六カ国すべての憲法は、共産主義政党の
独占的指導権をうたっていた)、独裁党の政治的決定が国家機関の名目的権限に無条件に優越するが故に、
文字通りの超法規的独裁であって、憲法上の規定はどうあれ、法治国家的制度や三権分立も欠除している
か、ごく形式的なものにとどまった。「法ニヒリズム」、暴力を可能な限り制限する法の意義を軽視し、む
しろ暴力を法の不可欠な要素とみなしもする傾向は、ロシア思想の特有な伝統であるともいわれる(6)が、レ
ーニンとボリシェヴイズムは、この伝統のもっとも苛烈な実践者だった。[晩年のモロトフは、「レーニン
とスターリンのうち、どちらが厳酷だったか?」と聞かれて、もちろんレーニンだ、と答え、レーニンがス
ターリンの「ソフトさとリベラリズム」(!)を叱責して、「どんな独裁を我々は持っているのかね? 
我々が持っているのはミルクと蜜の権力で、独裁ではない!」と述べたという思い出を語っている(7)]。新
中国の憲法史は、内戦期から文化大革命期を経てこんにちまで永続するこの政治体制の半軍政的性格を、よ
く示している。すなわち、七八年憲法までは解放軍は中国共産党の指導する労働者・農民の子弟兵であり、
「プロレタリア階級独裁の柱石」であるとされていた(一九条) が、ケ体制が確立したなかで改正された
八二年憲法では、全国武装力の指導は全国人民代表大会において選出される「中央軍事委員会」が行なうと
され(九三条)、「党軍不分」の体制は一応修正された。だが、一〇年前の天安門事件当時のこの機関の主
席はケ小平であり、規約上党の最高指導者である党総書記の趙紫陽 (現在軟禁中)と、国を代表する国家
主席の揚尚昆は、共に副主席であって、ケの下僚に過ぎず、ケ主席が事件を動乱と規定し、その武力鎮圧を
決定したのである。そしてこの独裁の超法規的性格は―皮肉なことに―、既成の法手続きも、現職の大統領
すらも平然と無視したソ連邦の解体過程の政治的便宜主義にも現われた。超法的に存続した国家は、やはり
超法的に崩壊したのである。ところでこの体制の本質を規定するうえで本来もっとも重視さるべきでありな
がら、わが国では奇妙にも軽視されるか、無視されているものは、憲法上はこの体制の主権者とされた人
民の総体が、そのもとで蒙った永続的かつ全面的な人権抑圧であり、とりわけ古典的スターリン時代に
実施された大量弾圧=政治犯罪としてのジェノサイドから、独裁党の政策選択の結果として生じた大
飢饉や強制移住等々の結果までを含む、すさまじい規模での人命の損失の悲劇である(いうまでもな
く、その規模と内容は時代と国によって可変的であり、スターリン批判以後はかなりその様相は緩和された
が)。

 スターリン主義によるソ連の人命の損失数(戦争による犠牲は除く)については、東西の研究者から種々
の推計が出されているが、どんな基準によっても、一千数百万人を下回ることはありえない(詳細は省略)
し、またレーニン時代の内戦期の人命喪失数(約一千万人)は、ボリシエヴィキ党の政策決定が内戦勃発の
第一の決定的要因である以上、その主要な責任は、同党とその政権が負わねばならないであろう(8)。毛沢東
時代の中国については、四九年から五二年二月までに八七万余人が「反革命分子」として処刑され、大躍進
期の餓死者二、二一五万人、文革での被処刑者または異常な死者一八六万人を合わせて、総計二、六〇〇万
人が犠牲になった、という研究が党史研究室から党書記局に提出されたが、非公開とされたという記事が、
香港の月刊誌.『争鳴』の九六年一〇月号に発表された。なお、本誌九八年二月号で福田玲三氏がいち早く
その一部を紹介されたところの、フランスの歴史家六人による大著『共産主義黒書』(ロベール・ラフォン
社、一九九七年)の序章でステファン・クルトワは、共産主義体制下での犠牲者(死者総数)を、今後正確
にさるべき個人的仮説として、国ごとに次のように提示している。(9)

 ソ連      二、〇〇〇万人

 中国      六、五〇〇万人

 ベトナム      一〇〇万人

 北朝鮮       二〇〇万人

 カンボジア     二〇〇万人

 東欧        一〇〇万人

 ラテンアメリカ    一五万人

 アフリカ      一七〇万人

 アフガニスタン  一五〇万人

 コミンテルンと権力を

 握っていない共産党 約一万人
 

 総    計     約一億人


 これらの数字とその根拠などについて、当然厳しい批判的検討が必要とされることは、いうまでもない。
だが最大の問題は、そういうところにはない。社会主義の第一の目標とは本来、貧困や戦争に脅かされる人
民の生命と人格の徹底した擁護にあったはずであり、途方もない規模の民衆殺害を犯した体制に対して、社
会主義という規定を与えることが、今そのことを知った私たちに許されるだろうか?という問題である。そ
れは、私たちの理念=価値規範としての社会主義の問題であり、同時に次の世紀の私たちの社会主義的ヴィ
ジョンに本質的にかかわる問題である。

 だがわが国のソ連史家諸氏には、こうした視点は無縁らしい。岩波新書に収められている渓内謙氏の『現
代社会主義を考える』や和田春樹氏の『歴史としての社会主義』にも、驚くべきことに大量弾圧の事実とそ
の意味するものについての言及すらまったく存在せず、書名が示すように、ソ連は依然として社会主義体制
に属するものとされている。

 全体主義的独裁はその本性上個人独裁を生み、グロテスクな指導者層のカリスマ化を――とりわけ後進諸
国において――現出させたが、ここではまた出身階層による差別も継続される。一般に知識層と自律的な個
人、その文化は警戒され迫害される。その体制のもとで人間は、与えられた世界=「存在」との絶対的同意
が強制され(ミラン・クンデラ)(10)、また各人からは主体としての責任が取り去られるため、「彼らは大人
になれない。」(ヴォルフガング・テンプリン)(11)。 -----------------------------7d530d29190250 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream