人民の敵 

 

 
 

 それより数日後の十月二十九日(十一月十一日)の軍事革命委員会の会合において、誰だか不明だが出

していた何人かの代表が、「人民の敵」に対する闘争を一層はげしくする必要を喚起した。これは十一月

三日(十一月二十六日)に軍事革命委員会の声明の中で再確認され、数カ月、数年、数十年後には大成功

おさめる表現となった。「国家、銀行、国庫、鉄道、郵便、電信の高級役人はボリシェヴィキ政府の施策

妨害している。今後、これらの人間は人民の敵と宣言される。彼らの名はすべての新聞に発表され、人民

敵の名簿はすべての公共の場所に掲示される。」 この追放者リストの制度ができた数日後には新しい声

が出された。「サボタージュ、投機、買い占めの嫌疑のあるすべての者は、人民の敵としてただちに逮捕

れ、クロンシュタットの監獄に移送される。」
 
 

 数日後、軍事革命委員会は「人民の敵」と「嫌疑」という、とくに恐ろしい二つの概念を導入した。

 十一月二十八日(十二月十一日)、政府は「人民の敵」の概念を制度化した。レーニンが署名した布告

次のように明記している。「人民の敵の政党である立憲民主党の指導部のメンバーは法律外に置かれ、た

ちに逮捕されて革命裁判所に召喚されなければならない。」 これらの裁判所は「裁判所に関する布告第

号」によってできたばかりだった。この布告の文言によれば、「労農政府および社会民主党と社会革命党

綱領に反する」すべての法律は廃止された。新刑法が作成されるまで、裁判官は好きなように解釈できる

然とした概念である「革命的秩序および合法則性」に応じて、現存の法制度の有効性を自分の裁量で決め

ことができた。旧制度の裁判所は廃止され、人民裁判所と革命裁判所がこれにとって代わった。これらは
「反プロレタリア国家的」犯罪と軽犯罪、「サボタージュ〔妨害行為〕」、「スパイ」、「職権乱用」
と、
その他の「反革命的犯罪」とを管轄権限とした。一九一八〜一九二八年間の司法人民委員だったクールス

ーが認めているように、これらの裁判所は言葉の「ブルジョワ的」意味で普通の裁判所ではなかった。そ

は反革命分子を裁くより、根だやしにすることに専念した、反革命とたたかう機関であり、プロレタリア

裁の裁判所であった。革命裁判所の中には「誤ったニュースを故意に流して人心を惑わす」すべての出版

を差し止め、新聞・雑誌の違法行為を裁くことを担当する「定期刊行物裁判所」もあった。
 
 

 前代未聞のカテゴリー(「嫌疑」、「人民の敵」)を生み出し、新しい司法体制を設置する一方で、ペ

ログラードの軍事革命委員会は自らの組織を整備し続けた。小麦粉のストックが一日の配給量−成人一人

たりパン半フント〔約二〇〇グラム〕−にも満たない町で、どうして食糧を調達するかということは、も

よりきわめて重要な問題であった。
 
 

 十一月四日(十七日)、調達委員会が設置された。その最初の声明は「貧困を利用する富裕階級」を糾

し、「いまや金持ちの剰余品を徴発し、彼らの財産を徴発する時である」と断言した。十一月十一日(二

四日)、調達委員会は兵士、水夫、労働者および赤衛軍からなる特別分遣隊を「最低必要限度の食糧をペ

ログラードと前線に確保する」ために穀物生産諸県にただちに送ることを決めた。ペトログラード軍事革

委員会の一委員会が決めたこの「調達軍」の分遣隊による徴発という処置は、およそ三年間にわたって行

われる政策の先駆けとなった。それはまた新権力と農民の間に暴力とテロルを生み、両者の対決の基本的

ァクターとなった。
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